2009年10月27日

「質的研究実践ノート -研究プロセスを進めるclueとポイント-」

ムカラバでは、ゴリラを筆頭に、類人猿やサルの直接観察に基づく調査ができるようになってきた。とはいえ、多くの観察は断片的で、定量的なデータを大量に収集するのは難しい。

また、ムカラバに限らず、サルのフィールド調査では、まれにしか起きないが、重要な考察につながるような事象を観察する幸運に恵まれることもある。しかし、そういった観察はどうやって研究に生かせばよいのか、悩ましい。

研究者の中には、たった一つの観察から鋭い洞察をする人もいるが、逆に妄想を膨らませるだけ膨らませたあげく、観察事実とはほとんど無関係な自分の持論を延々とゼミや研究会で展開する人もいる。

それはともかく、生起頻度が低く、かつ定量化が難しい事象を蓄えてゆき、そこから類人猿の社会生態についてもっと豊かな記述ができないものだろうか。ムカラバのチンパンジーに関していえば、少なくとも今後数年間は、そうした質的なデータに頼らないと物がいえないだろう。そう考えて、エスノグラフィーの方法論としての「質的データ分析 (Qualitative Data Analysis; QDA)」に関心をもった。

QDAに興味をもったきっかけは佐藤郁哉氏のフィールドワークに関する著作だ。だからQDAの実際の方法論についても、彼の著作から読んでもよかったのだが、ちょっと違う分野でのQDAの活用事例を知りたくなったのと、うちの学生たちの卒論指導にも使えるような本をと思い、本書を購入した。著者は臨床の精神科医であると同時に、質的研究によってケア技術やケアの対象者をめぐる諸問題を研究している人らしい。


短くて読みやすい。すぐ読みおわった。良心的な本である。類書をまだ読んでいないので、他の本と比較して批評することはできないが、著者自身の研究プロセスにもとづく例がふんだんに紹介してあり、QDAの初学者は、僕のような分野違いの人間でも、実際の分析の雰囲気をリアルに感じながら読むことができた。

内容はQDAだけではなく、QDAを用いた研究プロジェクトの計画から実施、分析そしてプレゼンと論文発表までの流れ全体を網羅して解説しているので、とくに福祉分野でこれから研究をしようという人には研究そのものの入門書としても使えるだろう。つまりうちの学生むけ教科書としてとても有用だ。

著者の実体験を中心に書かれているため、QDAのさまざまな技法をすべて網羅しているわけではなさそうだ。詳しく書かれているのは、録音されたインタビューを文字おこししたデータから「テキストのスライス」を作り、そこからさらに概念抽出を行なうやりかたの一例だけである。参与観察から得られたフィールドノーツをどう処理するか、ということは説明されていなかった。

それでも本書が僕にとって有用だったと思えるのは、著者の研究姿勢である。著者は、QDAの手続を踏めば自動的に物事が整理されて現象を理解する概念が抽出されてくるわけではないと言う。

もちろんそんなことはわかってる、といいたいのだが、自分の心のどこかに「QDAのテクニックを習得すれば、断片的なチンプの観察から、楽にいろんなことを読みとれるようになるだろう」という浅はかな期待があったことに気付かされた。

質的データが必要とされるのは、いまだにその現象が十分に認知されていない場合や認知はされていても具体的な内容が不明な場合、主観的な現象の体験のありかたや現象の評価を記述することが必要な場合、あるいは文化の異なる集団でこれまで行われてきた研究成果が一般化できるかどうかを検討しなくてはならない場合、などである。(p.52)

本来かならずしも(量的分析を可能にするという意味での)客観性が担保されないような状況で、それでも何かを客観的に言わねばならないときが、質的データ分析の出番である。そこには、客観的でないものを客観的にする、という原理的困難がある。テクニックでなんとかなるものではない。

ではどうするかというと、結局ひとつひとつの現象をたんねんに検討するという作業が欠かせない。いくらテクニックを習得しても、量的データを統計ソフトで検定するかのように機械的にデータを処理することはできないのだろう。そのことをあらためて思い知らされた。

もうひとつ、質的研究を導入する際の注意点として参考になったのが、

(スーパーバイザーが研究者と話していると) どんなデータの解釈の折にも共通して出てくる概念がある。それが研究者自身にしかわからない、いわゆる「持論」なのか、今回の分析から新たに見出された「発見」なのかは、(スーパーバイザーが) 研究者の話を注意深く聞くことによって判別が可能である。(p.76)

というくだりである。上記引用は他の研究者をスーバーバイズする際の注意事項として書かれてたものだが、僕は研究者の態度として重要だと感じた。

僕はよく、森のなかで観察をしながら「あ、そうか。こういうことか」とひらめくことがある。しかし、なぜそういえるのかを考えたとき、かならずしもその根拠になる観察事実をきちんと示すことができない。それはつまり、そのひらめきが「発見」ではなく、単に「『持論』に合致させられそうな現象をピックアップ」しただけだからなのかもしれない。

僕はフィールドでの思いつきやひらめきを大事にしよう、と思う気持ちが強いが、フィールドで思いついたからといって何でもかんでも「そこには何かがあるはずだ」と思いこむのはよくないかもしれない。何かを思いついたら、それは持論ではなくたしかに発見なのか、再度観察事実をていねいにあたって確かめるという作業をこれからはしようと思った。

2009年10月19日

香山リカ「親子という病」(講談社現代新書)

家族起源論は霊長類学の重要なトピックだが、最近は日本であまり語られなくなってしまった。

その一方で、家族の意味や、現代家族がかかえる問題がかまびすしく議論され話題にされている。現代日本において、家族のありかたはとてもポピュラーなトピックである。2008年の大河ドラマ「篤姫」も家族愛がテーマだったし、2009年春の朝ドラ「つばさ」も親子関係の再生の物語だった(途中から見なくなっちゃったけど)。

なんで家族がこんなに問題視されているこの時代に、家族起源論がかえりみられなくなってしまったのだろう。家族起源論が社会の注目を集めないのは、それが現実の家族問題の中でリアリティをもたないからだ。家族が変容している(らしい)今こそ、あらためてリアリティのある家族起源論が必要なんじゃないか。

というようなことを考えつつ、本書を読んだ。

 

冒頭、現代のポップカルチャーにおいて家族の絆が大切に扱われていることが示される。最近のJ-Popに「生んでくれてありがとう」と親への感謝表明をする歌が増えているという。

一方、「家族殺し」もまた現代の大きな社会問題である。家族殺しの件数自体はずっと減少傾向にあるが、ごく普通の家庭で家族殺しが発生するようになっている。また、若者による無差別殺人の根底にも家族内の問題がある。下手人たちが、「親を困らせたかった」という趣旨の発言をする。

現代の「子どもたち」は、一方で親への感謝と愛を"経でもとなえるように"表明しながら、一方で親に対する恨みをつのらせているかのようである。本書では、これらが表裏一体の現象として理解される。

精神分析医としての臨床経験から著者がひきだした結論を要約すると次のようになる。

現代において、家族の社会的機能はほとんどが他で代替可能になっている。マードックが指摘した家族の機能のうち、今もなお家族特有の機能といえるのは「生殖」(子作りと子育て)くらいしかない。それすら大部分は外注可能になっている。こんな状況で、家族に積極的な社会的意味を見出すのは困難である。

しかし、わたしたちはそれでもなお「家族(親子)は重要」という思いから逃れることができない。それはいわば「病」である。

親子(家族)という病に深く冒された人たちは、必死で家族をやろうとする。家族をやるとはどういうことか。それは、互いに無償の愛を与えあうことである。それは精神的な部分だけでなく、行為をともなう。かくして親は「我が子のために」無償の自己犠牲を、頼まれたわけでもないのに行うのである。特に母親は。

それに対する子どもたちの反応には明確な性差がある。(ここでいう子どもは、年齢的な子ども(juvenile)ではなく、offspringのことである。)
女性にとって母親の愛は支配である。支配から逃れたいと思うが、それが無償の愛に基く(と信じられている)が故に、そこから脱することを親への裏切りととらえ、罪悪感を覚えてしまう。母親は母親で、娘が自分から逃れようとすると、それを裏切りととらえる。それは長期的な母子の恨みとなる。(そしてその恨みが精神症状となってあらわれた女性たちが、著者のもとを訪れる。)

一方、男性は母親の愛を生涯にわたって100%享受する権利があると考える。母の愛は不変なのである。それは自分が死んでもかわらないほどである(e.g. 「岸壁の母」)。だがリアルの母親はそうではない。そこで男性は母親に裏切られたと感じ、親殺しをしてしまう。あるいは、裏切られたという事実を否定するため、無差別殺人などをして"それでも母親が愛してくれること"を期待する。

いささかうまいことまとまりすぎという感はあるが、説得力のある解釈である。

さて、家族という病の原因について、著者は、基本的にはそれは逃れようのない病としたうえで、ふたつの外的要因を挙げている。ひとつは、社会権力の要請である。家族という、愛にささえられた社会構造があることによって、社会福祉のコストを家族に負担させることができるし、また人々の勤労意欲を高めることができるという。もうひとつは、現代社会において、多様な社会関係が失われつつあり、家族と向きあう相対的な時間割合が極めて高くなっていることである。つまり、われわれは普段、ほとんどのプライベートな時間を家族としか過ごしていないのだ。

では、われわれはいかにして家族という病を治療できるのだろうか。著者は、それは治癒不可であるという。ならばどうするのか。著者の答えはこうだ。

「親子というこの致死的な病の影響を少しでも軽くするためには、病そのものに取り組むのではなく、視線を内から外へ、家庭内から社会へ、家族から他人へ、とそらすことしかない。」

簡単にいうと、家族が問題になる時間や場面や精神的負担の相対量を減らせということだ。そのために、社会の中に積極的に出てゆき、赤の他人とのつきあいを増やせということだ。

生活者としての僕は、この意見をとてもまっとうなものだと思う。家族、家族とさわぎすぎの現在は、あきらかにちょっと病的だ。

それはそれとして、家族(起源)論という立場から少し考えてみようと思う。

著者のいう「病」は、「本能」と呼べるのかもしれない。本能という言葉が嫌いな人は「生得的な傾向」でもよい。社会集団の中に家族という構造が生じたのには、進化的な背景があると考えるのだ。至近的には家族は個々人の"家族行動"によって維持されており、それを支える心性が家族愛なのだ。

スプレイグさんがサルの生涯、ヒトの生涯--人生計画の生物学 (生態学ライブラリー) の中で、現代の日本人の生活史の特徴を「子どもの完全無価値化」だと述べている。近代以前の社会や自然社会では、子どもは早い段階から何らかの形で生産活動を行う。たとえば水汲みとか、畑仕事の手伝いとか。そして、年齢を重ねるにつれ生産量は増大し、大人になると自分一人の消費量を上回るようになる。実際、農家などでは、子どもをつくる大きな理由のひとつが働き手の確保にあった。つまり、親が子どもを育てるのは、子どもが役立つからであった。現代はどうか。子どもは親の仕事を申し訳程度に手伝うくらいで、ほとんどまったく生産しなくなった。

同じことをアメリカの人類学者の David Lancy も述べている。現代西欧社会において、子どもは"経済的にはほとんど無価値"になっている一方、"崇拝ともよべるような"価値づけをされているというのだ。

一方、子どもの側からみてみると、たしかに親は経済的に極めて重要である。しかし、著者が述べているように、親の機能の多くは外注可能になり、事実外注されている。

したがって、親も子も、機能的には互いを必要としていないことになる。にもかかわらず、家族という病/本能は家族の解体を許さない。いらなくなっても愛は残る。無償の愛とは、機能を失った愛といえる。

このように考えると、親子という病/本能を克服するためにできることとして、「親子から目をそらす」以外の方策がみえてくる。それは、愛の機能をもう一度精査し発見して、無償の愛を有償の愛に戻してあげることだ。

現代社会において、家族という構造の効用は何か。僕たちは家族を構成して生きることで、どんな利得を得ているのだろうか。こうした問いをたてることで、今まで気付かれていなかった、人間家族に普遍的な機能をあらたに発見することになり、家族の起源と進化を考えなおす材料となるかもしれない。

例えば、これは実は部分的にはあるところで聞いた話の受け売りなのだが、家族で暮らすことで、食物資源をより効率的に利用することができるかもしれない。通常、家族というのは異なる性年齢クラスに属する個体によって構成されているので、成員間で栄養要求や食物の可食部位がちょっとずつ異なる。同質の個体で構成された集団とくらべ、食物をめぐる競争が緩和されるし、一人が食べられない部位や食物アイテムも、別の人が食べることができる。

同質の個体で構成された集団というのは、例えば老人ホームだ。老人ホームでは、食物の固い部位は誰も食べられない。そのため、食べられずに捨てられる部分が多くなる。実際、老人のみの世帯やホームでは、捨てられる食物が相対的に多いのだそうだ。一方、家族で暮らしていれば、野菜などで、老人が食べられない固い部位を成人男性が食べることができる。

これはちょっとした思いつきにすぎないけれど、こうした観点なら、類人猿の社会生態学的研究から現代家族について言えることがまだまだ掘り出せるような気がする。

2009年10月11日

やるべきことが見えてくる研究者の仕事術--プロフェッショナル根性論

以前から「ライフハック系」の本や記事、ウェブサイトが好きで、よく読んでいた。GTDなどは自分の日々の生活を管理するのにおおいに参考になる。

しかし、ビジネスパーソン向けの仕事術本を読んでいると、役にたつことは多いのだが、やはり研究者の生活とビジネスパーソンの生活には、どこか根本的な違いがあるのだな、ということを感じることが多い。

一番よく感じるのは、ビジネスパーソンむけのアドバイスの多くの基底にあるのは、「"思考"を分解して"作業"にしてしまえば、あれこれ考えなくてすむ」という考えかたであるように思う。だが、研究者は、やっぱりしっかり"思考"しなくてはならないと思うのだ。

もちろん、研究者の仕事のなかにも、"作業"としてて扱えばいいようなことはたくさんある。むしろ、費す時間で考えればそういう仕事ばっかりと言ってもいい。残念なことだけれど。

それはともかく、研究者の仕事のキモは"思考"にあり、それは完全に"作業"に分解してしまうことは不可能だと思う。しかし、ある程度"思考"も"作業"的におこなうことで、効率的に考えることができるようになるのではないか、そういうヒントを、「ライフハック系」書籍に求めてきたわけだ。

「やるべきことが見えてくる研究者の仕事術--プロフェッショナル根性論」は、おそらく日本語で書かれたはじめての研究者向けライフハック本だ。仕事術的な意味では、あまり目新しい内容はなく、既存のライフハック本の内容のダイジェスト的なものだ。しかし、"研究者のライフハック"の指針が簡潔に記されており、参考になった。

(amazonのレビューではつっこみの浅さに対する批判もあるようだが、"研究者がいかにビジネスパーソン的仕事スタイルをつまみぐいして自分の生活にとりいれるか"ということを解説した本だと考えればいいのではないか。ライフハックなんて、所詮は処世術だし、研究者たるもの、そこに深みを求めてもしょうがない気がする。)