2010年6月21日

[読書] 料理は本能ではない。だがヒトは料理を食べるよう進化した

西田さんはマハレのチンパンジーの食物を「毒見」して、チンパンジーの味の好みはヒトのそれとほぼ一致すると言った。でも、それは味のポジティブな側面についてだけかもしれない。

Cissus dinklageiという植物がある。ブドウの仲間だ。中部アフリカで類人猿調査をした人なら、誰しも一度はこいつに酷い目にあわされたことがあるのではなかろうか。おいしそうなオレンジ色の果実がたわわに実る。いかにも糖度が高そうな甘い匂い。ジューシーな果肉。ちょっと種子が大きいだけで、栽培植物のブドウとたいしてかわらない見かけ。チンパンジーもゴリラも、それはうまそうに食べる。だが、ヒトが食べるととんでもないことになる。

ある研究者は"トウガラシのようなスパイシーな刺激"と表現したが、僕の食べたのはそんななまやさしい物ではなかった。口蓋、あご、喉、食道の奥まで、刺すような痛みと痺れ、硬直する感じ。死ぬのではないかと思うほどだった。しかも、食べてすぐにはこないのだ。そこそこ味わって、果汁を呑み込んだあたりからくる。なんともたちが悪い。

これをチンパンジーがうまそうにもぐもぐ食べるというのは、信じがたい。ヒトとたいして味覚に差がないはずなのに。しかし、本書:「火の賜物―ヒトは料理で進化した 」(リチャード・ランガム著)を読むと、これこそが、われらがヒトをチンパンジーから隔てるヒトらしさであるのだとわかる。

われわれヒトは、料理を食べるように進化した。これが本書のエッセンスだ。だから、生の食物に含まれる二次化合物への耐性はとても弱くなっているのだ。

人類の進化を食性との関連で論じた古典的セオリーに「狩猟仮説」がある。本書でランガムが主張する「料理仮説」は、それへのアンチテーゼだ。

ランガムによると、ヒト化(現代的な人間らしさの進化)にはふたつのステップがある。ひとつは、アウストラロピテクスからホモ・ハビリスへの進化。もうひとつは、ハビリスからエレクトスへの進化だ。(ランガムにとってアウストラロピテクス以前の人類は、類人猿の一種だ。)

ハビリスの進化は、ある程度狩猟仮説で説明できるかもしれない。しかし、エレクトスの進化はそれでは説明できない。ランガムは、火の使用と料理の開始が、ハビリスからエレクトスに至る、形態、生理、社会の進化をもたらしたと主張する。

料理された食物にはたくさんの利点がある。第一に消化率がよい。第二に消化速度がはやい。第三に毒物を無効化する。料理を食べると、生食よりも食物の消化にかかるエネルギーと時間コストを大幅に下げることができる。これにより、余剰エネルギーを脳容量の増大にあてることができ、余剰時間をギャンブル的な狩猟にあてることが可能になったとという。

さらに、女は料理を特定の男に供するみかえりに、料理を他の男による強奪からまもってもらうとともに、男が(たまに)持ちかえる獲物をわけてもらう。こうして性的分業と結婚の起源も、料理の開始にもとめられる。

非常に魅力的な仮説だ。だが本書の論調はやや単純化しすぎのようにも思える。一般書だからしかたないのかもしれないが。なにもかもが料理のおかげと考えるのはどうか。料理がヒト化の結果ではなく動因であったという考えには完全に同意する。しかし、分業、食物分配、家族の成立など、人間社会を特徴づけるさまざまな性質の出現順序や因果関係は、もうすこし慎重に考えるべきではないだろうか。

違和感がぬぐえないのは、ランガムは横井庄一さんの事例などをあげ、料理は一人でもできるとしているところだ。たしかに料理は一人でもできるが、そもそも料理はひとりでするものだろうか。

やがてエレクトスとなるハビリスのある単位集団で、メスたちが、それぞれ単独で料理をするようになる、という光景は想像しがたい。一人暮しの自炊が結局高くつくように、料理はある程度の量をまとめてやらないと、エネルギー的にも時間的にも、かえってコスト高になるのではないか。薪だって集めねばならんし。

ランガムに限らず、霊長類の社会生態学は、食性から社会構造を読み解こうとするときに、論理的思考の順序と、社会の成立の時間的順序とを混同しているように思うのだが、この料理仮説にもそのような匂いを感じる。

とはいえ、おもしろい。文章も訳もよくて、読ませる。個人的にいちばんおもしろかったのは、料理をするというのはどう考えても本能ではないのに、ヒトの形態、生理は料理を食べなくては生きてゆけないように進化しちゃっているということだ。