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2010年8月10日

2010年度ガボン調査

ツイッターをはじめたらブログ更新しなくなるかもと思っていたら、そのとおりになってしまった。去年から、ブログはブログでしっかり書こうと、わりとがんばってきたのだけれど。今後どうするか、少し考えます。

それはさておき、今日からガボン。今回は超短期。帰国は8月31日。JICAプロジェクトの総合調査の総括と、チンパンジーの調査が目的だ。チンパンジー、しっかり見てこよう。

2010年3月13日

リーブルビルに戻る


少し、というかかなり早めにリーブルビルに戻ってきた。現地2週間だ。ほんとうはあさってまで調査地にいる予定だったが、リーブルビルでカウンターパートのIRETと調整しなくてはならないことがたくさんあって、時間に余裕をみて戻らないとまたコミュニケーションエラーが生じると思い、予定を早めた。

今回は、今までとは全然別の意味で疲れた。今回は、哺乳類相の総合調査にむけた予備調査とIRETの研究者のトレーニングが目的。3人の研究者を連れて森へ入った。この3人がおそろしく勉強好きなのだ。毎日、森の中で質問、キャンプに戻って質問。質問ぜめだ。しかもなかなかいい質問をする。こっちの勉強不足が試されているかのようだった。

その一方で、研究技能に関する質問は、えーー、そんなことも? と思うような物が多かったり、データを入力してみてね、と言ったらワープロソフトの表機能を使って入力しちゃったりとか、これはこれで大変だった。

しかし、こうしたやりとりを通じて、ガボンの研究者たちの研究環境が見えてきた。彼らには、日本の大学の学部で行われるような「基礎教育」が相当不足しているのだ。知識と手作業は習うのだが、自分で物をあきらかにするための基礎的な技術が足りない。

なるほどそうかぁ、と納得したところで、彼らの質問はとまらない。基礎技能が足りないから、だいたい説明して「あとは自分でやってね」と言うことができない。手取り足取り教えなくてはならない。しかし、やってる作業の意味は理解しているので、「実習だし、時間もないから」と考えて入力でずるをしたりすると、「それっておかしいんじゃない?」と聞かれてしまう。

そんなこんなで、くたびれました。けどまだ終わらない。来週の月曜日は研究室でRの導入講義をすることになった。はぁ。

2010年2月23日

ようやくキャンプへ


リーブルビルに到着して一週間、ようやく調査地へ移動できるめどが立った。最近では、これほど時間がかかったのは久しぶりだ。

キャンプ入りが遅れた原因は、調査許可の遅れだ。JICAのプロジェクトが始まって以降、いろんなことの規模が大きくなったため、日本人研究者とガボン側の意思疎通がなかなかうまくゆかなくなり、先方にさまざまな不満がたまっていたようだ。

結局、いつものように、じっくり議論することで相互理解にいたることができた。けれど、プロジェクト運用上でカウンターパートと齟齬が生じた場合、それを解決するのは専門家の役割なのかなぁ、とか、僕より先に入っている人たちも、もうちょっと先方とのコミュニケーションを密にしてくれないかなぁ、とか、愚痴を言いたくなったりして。

ともあれ、ようやく調査だ。運営管理はあくまで二次的な仕事。頭を切替えてゆこう。
同行している京大のNくん、とても優秀で、刺激になる。森を歩くのが楽しみだ。

2010年2月14日

出発


明日から一ヶ月、ガボンへ行ってきます。JST地球規模課題対応国際科学技術協力事業の一環で、今回は初めてJICAの専門家としての派遣になる。だからといって、渡航の準備に今までと違うことがあったわけではないけれど。

直前まで大学の残務処理でばたばたして、ほかの教職員のみなさんには大変お世話になった。また、昨日、おとといと「犬山落語の会」のイベントに参加して、大喜利なんかしたりして、旅行前の気持ちをととのえることができた。

毎度のことだが、問題山積のフィールドへと旅立つ。実は明日中部空港でいきなり面倒があるのだけれど、JICA専門家になろうがなんだろうが、こういう面倒はなくならないのね。と、何年も前に悟ったはずだが、まあ、面倒は面倒だ。けど、文句いってもしょうがないし、1995年のNdokiの森の苛酷な生活よりもしんどい思いはしていない。だから今回も大丈夫。

というわけで、いってきます。なにはともあれ、花粉と寒さからエスケープできるのはうれしい。

2009年12月 7日

[読書] 「見る」と「書く」との出会い--フィールド観察学入門


僕の調査地のムカラバでは、だいぶ類人猿を「直接観察」できるようになった。そうは言っても、まだまだかれらを十全に観察できるとはいいがたい。人づけしたゴリラの群れでさえ、終日かれらをvisualに確認できているわけではない。植生にさえぎられ、そこにいるのはわかっているが、見えてはいない、なんていう状態の時間がかなりある。チンパンジーは、こちらに気づいたら一目散に逃げてしまう。

そんな場合、これまでは「間接証拠」に頼っていろんな情報を得てきた。フンとか、食痕とか、ベッドとか。けど、正直いって、間接証拠にはもう飽き飽きしてしまった。人づけされたゴリラを観察して感じたのは、断片的で不完全な観察であっても、直接観察のほうが、はるかに多くの、かれらの「生態」に関する情報を与えてくれるということだ。

だが、断片的な観察は、どうやってデータにし、分析したらいいのだろう。また、そのためには、何を、どのように記録、記述すればいいのだろう。そういう問題意識のもと、ここしばらく、自然科学以外の分野の人による、「フィールドワーク」の作法やフィールドノート(フィールドノーツ)の書きかた、質的分析に関する本を読んできた。たとえば、佐藤郁哉「フィールドワークの技法--問いを育てる、仮説をきたえる 」「フィールドワーク--書を持って街へ出よう (ワードマップ) 」、エマーソン他「方法としてのフィールドノート--現地取材から物語作成まで」、萱間真美「質的研究実践ノート--研究プロセスを進めるclueとポイント 」など。

これらの本は大いに参考になったが、いずれも重点がおかれているのはノートをとってからどう分析するかということにあり、具体的にフィールドで野帳にどう記すか、日々の観察記録はどう書くのかについては、あまり多くの示唆を得られなかった。

いや、それぞれ、具体的な記述、記録例はふんだんに掲載してあり、参考になるのだが、自分のムカラバでの記録、記述にうまいこと活かせないのである。それは、記録はどうすべきか、という本質部分の説明がなく、いきなり具体例になっていたからだ。

麻生武「「見る」と「書く」との出会い--フィールド観察学入門 」を読んで、「観察記録とはどうあるべきか」という本質への洞察を得ることができた。著者は発達心理学のフィールドワーカーであり、また、大学の「基礎演習」で「フィールド観察学」の演習を行なっているそうだ。

結論から先に述べると、著者はフィールドノーツを書くことの目的(機能)を次のように述べている。

観察体験を一連のエピソード記憶として構成し標本化することが、フィールドノーツの第1の機能である。(p. 252)

引用中にある「エピソード記憶」とは、単なるエピソードのことではない。「見たものを覚えている(再認できる)」ということだけでなく、「確かに自分はそれを見たという出来事をも覚えている」と言えるような記憶のシステムのことである。本文の文言を借りるなら「あの時あの場面で、私がこの目で見、この耳で聞いたという「自己識的意識」を伴う体験の記憶」のことである。

これに対して、単に見たものを再認できる、というだけの記憶を意味記憶という。

たとえば、古い写真を見て、「いつどこで撮影したものかは(服装や背景で)わかるし、自分と一緒に写っているのは誰かも全部わかるけれど、その時のことは思い出せない」というような記憶は意味記憶だ。一方、写真を見ることで、写真をとったときのことをありありと想起するような記憶がエピソード記憶である。

フィールドノーツは、観察事実を再確認できるように書くだけでは足りない。自分がそれを見たぞ、というエピソード記憶を再認できるよう書くべきである、といういのが、本書から得た最大の教訓だ。

では、そのようなノーツを書くにはどうすればいいか。コツは二つある。

ひとつは、物語として記述するということだ。(物語として記述する、という表現は本書にあったかどうか定かでないが、そういうことだと思う。)

そこから一貫したテーマや問いが生まれてくるような観察記録は、一般にすぐれた観察記録であると言ってよいだろう。(p. 156)

物語として記述するといっても、それは擬人化した表現を使ったり、自分の感情や思いを込めて記録するということではない。観察体験をストーリーとしてとらえ、語るという姿勢で記述するということだ。

第二に、逆説的だが、ディテールとなる事実(意味記憶の構成要素)を、観察対象およびその背景まで、できるだけ詳しく丁寧に記述するということだ。体験したということは覚えているんだけど、それが何だったかは全然覚えていない、では、エピソード記憶とは言えない。エピソード記憶と意味記憶は対立概念ではなく、エピソード記憶の中に意味記憶が包摂されるのだ。

例えば、幼稚園の観察の際、絵本の並べてある棚からA君が絵本をとってきたシーンがあったとしよう。観察者はその絵本の棚がどのようなものかは、あらかじめ熟知していたとしよう。そうすると、フィールドノーツに書こうとした際に目に浮かぶその絵本の棚は、はたしていつ観察者の記憶の中に潜り込んだのだろうか。必ずしもその観察の時点ではないといった自体が生じるのである。(中略)だとすると、ある一連の出来事の記憶を細分化し、個々のエピソード記憶や個々の意味記憶に分解することは、用語の用い方としてもまずいのだろう。そのような場合、まず全体をエピソード記憶としてとらえ、その細部にどのように意味記憶が用いられたのか、分かる限りで意識しておくのが最善の方法であるように思われる。(p. 231)

また、上の引用は、もうひとつ重要な示唆を与えてくれる。それは、環境の記述は、対象を観察しているその時以外にもしておくとよい、ということだ。実際に動物を見る時、周囲の地形や植生を瞬時に観察し、記録にとどめるのは困難である。よく使う場所などは、あらかじめ環境記述のストックをしておき、随時アップデートしてゆくようなシステムを作っておくとよい、と思った。

実際に書かれるフィールドノーツの内容イメージとして、本書では、冒頭に正岡子規が近所の子の遊ぶさまを書いた「写生文」が例示されている。動物の観察記録としては「シートン動物記」が大いに参考になると思う。また、上にあげた佐藤郁哉さんの本の中で、演劇の書き割りと台本に着想した記録法が紹介されていた。はじめて読んだときはいまいちピンとこなかったが、なかなか示唆的だと再認した。台本とは、演劇(生き生きとした舞台)を作り出すもとであり、エピソード記憶を呼び出す装置と考えられるからだ。

しかし、このノート技法は、たぶん訓練が必要だろう。本来、大学院に入った段階でこういう訓練をしておくべきだったのだが...。しかし、思い立ったが吉日だ。

なお、本書の前半部は著者が大学の「基礎演習」等で実践したフィールドワークのトレーニングの内容が詳しく書かれており、大学教員としても大変参考になる。来年度は、学生と一緒に「書く」ことのトレーニングをしよう。

2009年10月27日

「質的研究実践ノート -研究プロセスを進めるclueとポイント-」

ムカラバでは、ゴリラを筆頭に、類人猿やサルの直接観察に基づく調査ができるようになってきた。とはいえ、多くの観察は断片的で、定量的なデータを大量に収集するのは難しい。

また、ムカラバに限らず、サルのフィールド調査では、まれにしか起きないが、重要な考察につながるような事象を観察する幸運に恵まれることもある。しかし、そういった観察はどうやって研究に生かせばよいのか、悩ましい。

研究者の中には、たった一つの観察から鋭い洞察をする人もいるが、逆に妄想を膨らませるだけ膨らませたあげく、観察事実とはほとんど無関係な自分の持論を延々とゼミや研究会で展開する人もいる。

それはともかく、生起頻度が低く、かつ定量化が難しい事象を蓄えてゆき、そこから類人猿の社会生態についてもっと豊かな記述ができないものだろうか。ムカラバのチンパンジーに関していえば、少なくとも今後数年間は、そうした質的なデータに頼らないと物がいえないだろう。そう考えて、エスノグラフィーの方法論としての「質的データ分析 (Qualitative Data Analysis; QDA)」に関心をもった。

QDAに興味をもったきっかけは佐藤郁哉氏のフィールドワークに関する著作だ。だからQDAの実際の方法論についても、彼の著作から読んでもよかったのだが、ちょっと違う分野でのQDAの活用事例を知りたくなったのと、うちの学生たちの卒論指導にも使えるような本をと思い、本書を購入した。著者は臨床の精神科医であると同時に、質的研究によってケア技術やケアの対象者をめぐる諸問題を研究している人らしい。


短くて読みやすい。すぐ読みおわった。良心的な本である。類書をまだ読んでいないので、他の本と比較して批評することはできないが、著者自身の研究プロセスにもとづく例がふんだんに紹介してあり、QDAの初学者は、僕のような分野違いの人間でも、実際の分析の雰囲気をリアルに感じながら読むことができた。

内容はQDAだけではなく、QDAを用いた研究プロジェクトの計画から実施、分析そしてプレゼンと論文発表までの流れ全体を網羅して解説しているので、とくに福祉分野でこれから研究をしようという人には研究そのものの入門書としても使えるだろう。つまりうちの学生むけ教科書としてとても有用だ。

著者の実体験を中心に書かれているため、QDAのさまざまな技法をすべて網羅しているわけではなさそうだ。詳しく書かれているのは、録音されたインタビューを文字おこししたデータから「テキストのスライス」を作り、そこからさらに概念抽出を行なうやりかたの一例だけである。参与観察から得られたフィールドノーツをどう処理するか、ということは説明されていなかった。

それでも本書が僕にとって有用だったと思えるのは、著者の研究姿勢である。著者は、QDAの手続を踏めば自動的に物事が整理されて現象を理解する概念が抽出されてくるわけではないと言う。

もちろんそんなことはわかってる、といいたいのだが、自分の心のどこかに「QDAのテクニックを習得すれば、断片的なチンプの観察から、楽にいろんなことを読みとれるようになるだろう」という浅はかな期待があったことに気付かされた。

質的データが必要とされるのは、いまだにその現象が十分に認知されていない場合や認知はされていても具体的な内容が不明な場合、主観的な現象の体験のありかたや現象の評価を記述することが必要な場合、あるいは文化の異なる集団でこれまで行われてきた研究成果が一般化できるかどうかを検討しなくてはならない場合、などである。(p.52)

本来かならずしも(量的分析を可能にするという意味での)客観性が担保されないような状況で、それでも何かを客観的に言わねばならないときが、質的データ分析の出番である。そこには、客観的でないものを客観的にする、という原理的困難がある。テクニックでなんとかなるものではない。

ではどうするかというと、結局ひとつひとつの現象をたんねんに検討するという作業が欠かせない。いくらテクニックを習得しても、量的データを統計ソフトで検定するかのように機械的にデータを処理することはできないのだろう。そのことをあらためて思い知らされた。

もうひとつ、質的研究を導入する際の注意点として参考になったのが、

(スーパーバイザーが研究者と話していると) どんなデータの解釈の折にも共通して出てくる概念がある。それが研究者自身にしかわからない、いわゆる「持論」なのか、今回の分析から新たに見出された「発見」なのかは、(スーパーバイザーが) 研究者の話を注意深く聞くことによって判別が可能である。(p.76)

というくだりである。上記引用は他の研究者をスーバーバイズする際の注意事項として書かれてたものだが、僕は研究者の態度として重要だと感じた。

僕はよく、森のなかで観察をしながら「あ、そうか。こういうことか」とひらめくことがある。しかし、なぜそういえるのかを考えたとき、かならずしもその根拠になる観察事実をきちんと示すことができない。それはつまり、そのひらめきが「発見」ではなく、単に「『持論』に合致させられそうな現象をピックアップ」しただけだからなのかもしれない。

僕はフィールドでの思いつきやひらめきを大事にしよう、と思う気持ちが強いが、フィールドで思いついたからといって何でもかんでも「そこには何かがあるはずだ」と思いこむのはよくないかもしれない。何かを思いついたら、それは持論ではなくたしかに発見なのか、再度観察事実をていねいにあたって確かめるという作業をこれからはしようと思った。

2009年8月14日

フィールドワークの入門書2冊



出発前になんとか読みおわった。フィールドワークに関する本二冊。主にエスノグラフィー(民族誌)を書くためのフィールドワークの入門書だが、類人猿研究にも応用できる部分が多々ある。

「恥知らずの折衷主義」と称して、ひとつの方法、単一の尺度にしばられるのではなく、さまざまな方法を駆使していろんなタイプのデータを集め、それらを組合せて説得力のある理論的説明を鍛えあげるというアプローチに大きくうなずく。

自然科学では、なるべく少ない分析項目で言いたいことを示すほうが「かっこいい」とされているが、大型類人猿の生態のような、スケールが大きくてつかみどころのないものについては、もっと自由な方法論でいろいろやってもいい。とくに、ムカラバのような、あたらしいところでは。

文章は平易でわかりやすく、初学者にもよみやすい。学生むけの教科書にしてもよい。かならずしも民族誌的調査に限らず、社会調査全般の教科書としてつかえるだろう。




2009年6月29日

ガボンで類人猿調査をするには?(3) 装備 1

ガボン調査マニュアル第3弾は、途中経路のホテルの予約について書こうと考えていたが、いざ出発してからのパリやリーブルビルの過し方と区別できなくなってしまいそうなので、旅支度の話にする。

今回は、必須中の必須アイテムをみっつ。

  1. 双眼鏡
  2. フィールドノート
  3. 筆記用具
時代おくれかもしれないが、この3点セットがあれば最低限の調査はできるのだ。順に説明する。

双眼鏡

ゴリラの人づけが進んでいるとはいえ、やはりなかなか間近で見ることはできない。顔やしぐさをじっくり見ようと思ったら、10倍はほしい。

倍率にも増して重要なのが明るさだ。森の中は思いのほか暗い。

完全防水でないと、湿気で中からレンズがカビる。最近は曇り防止機能がついているものもある。

あなどれないのが重さ。チンプもゴリラも樹上にいることが多い。必然的に上をむいて双眼鏡を構えることになるが、重たい双眼鏡だと肩がこる。僕の初代双眼鏡は900gもあって大変だった。

フィールドノート

フィールドノートは、コクヨの測量野帳スケッチブック、またはレベルブックを愛用してきた。ブロック罫線のスケッチブックか、横罫線のレベルブックかは好みが別れるところだ。表紙が厚紙で、何もないところで書くのに適している。

難をいえば、ページ数があまり多くないことと、縦長で作業着やベストの胸ポケットに入りきらないことがあることか。

今度の旅行では、今をときめくモレスキンの無地の手帳を試してみようと思って、試用中だ。1冊192ページもあるし、ゴムバンドがついている、背表紙の裏にポケットがある、糸しおりがついているなど、魅力的だ。少々高いけれど。

防水ノートがいいのではないか、と聞かれることがあるが、その必要はない。激しい雨に打たれながらノートをとることはあまりない。嵐山で防水レベルブックを使ったことがあるが、ツルツルして書きあじがわるいうえ、雨に濡れるとプラペーパーのページがくっついたり、割れたりした。紙が一番。

筆記用具

鉛筆か、シャーペンか、ボールペンか。好みが別れるところだ。すべて一度は試したが、今は顔料インクの2色ボールペンを使っている。しかし、人にもよるのかもしれないが、僕は森の中で別の色を使うことはほとんどない。

ボールペンの場合、同じものを最低2本は持ってゆく。落とすかもしれないからだ。また、替え芯もふんだんに持ってゆこう。芯の残りを気にして書くのを控えるのはばからしい。それから、森の中にも2本は替え芯を持ち歩く。最近のボールペンは性能がいいため、最後の最後まで、まったくインクが終わる気配を感じさせずに書ける。そしていきなり終わる。2本なのは、落とすかもしれないから。

ノートやポケットに挿せるように、クリップのついたものがよい。プラスチックのクリップは折れやすいので、金具のものがよい。

シャーペンの欠点は薄いことだ。あとから読みかえすのが大変だ。利点は、少々の雨では書けなくならないということ。ただし、最近の(日本の)ボールペンはなかなか性能がよくて、そうそう書けなくならない。

先輩のSさんに教わったのだが、薄いのは芯が固いからで、2Bの芯にすれば濃く書ける。ただ、やわらかい芯はよく折れる。僕はボールペンにする前はシャーペン派だったが、結局そのときはBの芯におちついた。でも、やっぱり薄いと感じた。

シャーペンもクリップが必須。

鉛筆...。鉛筆にはあこがれがある。2Bの鉛筆ならシャーペンほどには折れるまい。また、頑丈さ、こわれにくさではボールペン、シャーペンをはるかに凌駕するだろう。

問題はクリップがないことだ。こないだ、ロンドンで万能ペンクリップを買ったので、一度試してみるか。

ただ、筆先を守るためキャップが必要だ。でもキャップはおとしそう。実はノック式ボールペンの利点は、芯の収納が簡単というところにあるんだよなぁ。

2009年6月25日

方法としてのフィールドノート

フィールドノートの書き方を人から教わったことはない。自分のノートってどうなんだろう、とよく思う。

方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで
ロバート エマーソン リンダ ショウ レイチェル フレッツ
新曜社
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本書は、エスノグラファー(民族誌家)を志す人のためのフィールドノートの書きかたの入門書だ。日本では10年前に出版されていたようだが、今まで知らなかった。ちびちび読みはじめているが、非常にためになる。

類人猿観察とエスノグラフィーとでは勝手が違う部分も多々あるが、書かれている原則や理念は共通だ。卒業研究にとりくむ学生にも勧めたい。

2009年6月 7日

ガボンで類人猿調査をするには? (2)航空券とビザの取得

前回にひきつづき、ガボン調査へ出掛けるための準備を記す。

予防接種が終わったら、次は航空券を手配してビザを取得する必要がある。

航空券の手配

北まわり

ガボンへゆくには、いくつかの経路がある。もっとも一般的なのはパリを経由する方法である。中部国際空港からはエールフランスのパリ直行便が出ている。ただし、これは日本航空とのコードシェア便であり、実際は日本航空便となる。

エールフランス以外でゆこうと思うと、シンガポール航空やタイ航空、大韓航空などでパリへゆく手もあるが、時間が余計にかかるわりに安くならない。パリまでだったら安くなるのだが、パリとリーブルビルはどのみちエールフランス便を利用せねばならない。すると、パリまでとパリからで別の航空会社を使うことになり、パリ-リーブルビル間のエールフランスが割高になってしまうのだそうだ。

昔は夕方パリに着き、同じ日の深夜の便でリーブルビルに行くことができた。あるいは、一泊して一日パリを満喫することもできた。しかし、数年前から深夜便がなくなってしまったので、夕方パリに着き、一泊して翌朝出発になった。おかげでパリを楽しもうと思うと2泊せねばらなず、さすがにそれは時間がもったいないので、パリにただ泊まるだけというつまらない旅になってしまう。

南まわり

パリを経由しない方法としては、アジア系航空会社を利用してヨハネスブルグ経由で行く経路がある。しかし、エールガボンがつぶれてから、ヨハネス-リーブルビル間の便数がとても減ってしまったため、なかなかうまい日程を組めない。それに、ヨハネスではとくにすることがないので、あまりおすすめしない。

ビザの取得

航空券を取得したら、次はビザの手配だ。ビザは駐日ガボン大使館に申請する。たいてい、旅行会社がやってくれるが、自分でガボン大使館に電話して書類をとりよせることもできる。日本語のできる人が電話にでてくれる。

必要書類は以下のとおり。

  • パスポート
  • 黄熱病の予防接種証明書(イエローカード)
  • 写真2枚(裏にローマ字で記名)
  • 航空券
  • 航空会社発行の旅程表
  • 所属機関の推薦書
  • 現地受け入れ機関の招待状
  • 宿泊予定のホテルの連絡先(要予約)
すべての書類がそろっていれば、5営業日内にビザがおりる。しかし、大使が出張やバカンスで不在の場合は待たされるので、余裕をもって1ヶ月前には申請したい。

経験的には、現地受け入れ機関の招待状は必須ではない。実際にどこに行くのかを伝えれば、大使館から本国照会をして確認してくれる。だがその場合、発給に時間がかかる。こういうとなんだが、まじめに照会しているようだ。

ビザの有効期間は、渡航期間にあわせたものになる。原則として3ヶ月が最長で、現地で1ヶ月だけ延長が可能だ。昔は何度でも延長できたのだけど。3ヶ月以上滞在する場合は、在留許可証(カルト・ド・セジュール: 2年間有効)を取得する必要があるが、これは日本で取得するのは至難の技らしい。まずはビジネスビザを取得し、現地に到着次第申請するのがよい。

2009年6月 2日

ガボンで類人猿調査をするには? (1)予防接種

6月こそ更新頻度をあげるぞ。
というわけで、安直なネタを探してみる。

そこで、自分の情報管理もかねて、かつて先輩から教えてもらったことに、自分の経験を加味して、ガボンで類人猿調査のフィールドワークをするために必要な準備の数々を少しずつまとめてゆこうと思う。

第1回目は予防接種。ガボンに安全に渡航するには、いくつかの予防接種をうける必要がある。その種類と注意点を以下に記す。ただし、この情報の正確さについて保障はしませんので、もし参考にする人がいても、かならず医療機関や関係機関の情報にあたるようにしてくださいね。

黄熱病

黄熱病の予防接種は必須で、しかも一番最初に受けるべきだ。ガボンは入国に際して黄熱病の予防接種証明書の提示を義務づけているからだ。実際には渡航の際のビザ申請時にパスポート、発券ずみの航空券とともに提出しなくてはならない。

1回の予防接種で効果は10年間持続する。ちなみに僕は2回目の5年目だ。

たしか、黄熱病の予防接種を受けて1ヶ月間は、ほかの予防接種をうけてはいけなかったはず。また、効果が確実になるのも接種後1ヶ月だったと思う。

だから、ほかの予防接種をすますのに1ヶ月(はやくて2週間)と考えると、渡航2ヶ月以上前に接種することが望ましい。

破傷風

日本ではあまり怖がられなくなった破傷風だが、傷を負ってもすぐに医療機関にゆけないキャンプ生活では、破傷風の予防接種をしているといないとで、安心感がちがう。

3〜8週間間隔をあけて2回接種し、2回目から半年〜1年半くらいのあいだに3回目の接種をすると、10年間有効。それ以降は、1回追加接種するごとに10年有効となる。

半年以内の渡航の場合、2回接種した状態で渡航し、帰国後3回目を接種するとよい。

僕はそろそろ切れる。今度の渡航前には接種しておこうかな。

A型肝炎

食物から感染するので、感染機会は比較的高い。だから予防接種しておくほうがよい。2〜4週間間隔で2回接種し、半年後に3回目を接種すると、5年有効。

あ、切れてる。次回受けようっと。

狂犬病

昔は生ワクチンで、予防接種による事故がけっこうあったそうだ。今は大丈夫らしいが、僕は受けていない。受けなくちゃ。狂犬病の犬に噛まれたらかならず死ぬので。

4週間隔で2回、半年後に1回で1、2年有効だって。短かいのね。
しかも、噛まれたら追加接種しなくちゃいけないらしい。

B型肝炎

性感染か院内感染が主たる感染ルートで、院内感染の確率は近年下っているので、海外でおイタをしない人は、別に接種しなくてもよいといえる。僕は接種していない。

昔、サッカーのワールドユース大会が西アフリカで開催されたことがある。小野とかの「黄金世代」が準優勝したやつ。

覚えている人もいるかもしれないが、そのとき、代表メンバーに選出された選手の何人かが、「サッカー協会の指定した予防接種」を受けていなかったが、当時のトルシエ監督が、そんな予防接種は不要、と言って強引に選んで協会ともめたことがある。

それが、B型肝炎だ。いまさらながら、トルシエに一票。


2009年4月17日

「森の中」と「森の底」

ここ数日雨がちで、今朝もぽつぽつしてた。雨とともに、花粉も流れていってくれーと願っていたが、どうなることやら。


とくに火曜日の大雨はすごかった。夜まで会議で、そのあと山道を車で帰るのがおそろしいほどだった。コンゴのンドキにいたころ、何度かキャンプで大雨に降りこめられたことを思い出した。

森で激しい雨が降ると、キャンプのバラックから一歩も出られない。トイレにゆくのも一仕事だ。おまけに雨音もすごくて会話もできない。雨に降りこめられるとはこういうことか、という感じだ。

けれど、考えてみると、ガボンで雨に「降りこめられた」というような覚えはあんまりない。もちろん大雨は何度も経験している。どちらかというと、ガボンのほうがデカい雨が降る。

ガボンでは「降りこめられる」というより、「雨に降りさらされる」という感じだ。

同じ森での雨なのに、なんで感じ方が違うのだろう。思うに、それは森の深さの違いによるのだろう。

ンドキの森は高かった。そして、その高い森が連続していた。観察対象のチンパンジーやゴリラ、サルたちはその高い森の上のほうにいた。あそこまで浮かぶことができればな、と思いながら、あー、ここは深海の底ならぬ「森の底」だ、と感じたものだ。光もほとんど刺してこない。日がかたむくと、あっという間に周囲が闇につつまれた。

そんなところで大雨にあうと、森がほんとに深海になってしまったかのように感じる。キャンプはさながら壊れた深海潜航艇のようだ。

ガボンの森も、日本の森よりはるかに高い。けれど、ところどころに切れ目やギャップがある。虫食いのようにサバンナがあったりして、そんなところでは、光は横からも刺してくる。日中はかなり明るく、夕方になっても、なかなか暗くならない。モコモコとドーム状に分布する森の塊に入ったり出たりしながら調査をしている。朝、キャンプを出発すると、山陽新幹線がしょっちゅうトンネルに出入りするように、「森の中」に入ったり出たりしながら、一日を過ごしている。

プチロアンゴのキャンプはサバンナに作っていたし、ムカラバのキャンプもプランテーション跡の開けた場所だ。つまり、森の「外」にあるのだ。だから、そんなところで大雨に会うと、キャンプごと自分が雨にさらされてるように感じるのだろう。

どちらがよい環境ということはないのだが、心地良さということだけ考えれば、森の底にいた時間のほうが、幸せだったように思う。