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2010年1月12日

[読書] 雑食動物のジレンマ


本書、「雑食動物のジレンマ ──ある4つの食事の自然史 (上下巻)」 を一文で要約するなら「食とは生態である。」




「何を食べればよいのだろう?」本書の訳者あとがきや、新聞広告に書かれている言葉である。僕も本書を読みおえたとき、まったく同じ感想を抱いた。しかし、よくよく考えてみると、この問いは、本書の読後感としてはやや適切でないという気がしてきた。

僕たち人間は、雑食動物 (Omnivore)だ。僕たちの本能は、「環境にあるものから食べられるものを選んで食べなさい」と僕らに命じる。これが肉食動物なら、本能が命じるのは「環境からけものを選んで食べなさい」だし、草食動物なら「草を選んで食べなさい」、カイコのような極めて特殊化した昆虫の場合、「桑の葉を食べなさい」と、特定の植物種と部位を名指しで命じてもらえる。

しかし、僕たち雑食動物は違う。何でもたべられるかわりに、何を食べるべきか、本能は教えてくれないのだ。だから、僕たちは何でも食べられるかわりに、何を食べればよいのか知らない。何でも食べられるといったって、環境中には栄養にならないものや毒物があるだろう。では「何を食べればよいのだろう?」

雑食動物の幸運は、自然界のありとあらゆるものを食べられることにある。一方、その不幸は、どれが安全なのかを考えるとき、大体は自分しか頼るものがいないことにある。(p. 89)

これが、本書のタイトルである「雑食動物のジレンマ」だ。雑食動物のジレンマは、おそらく人類誕生以来、いや、それよりもっともっと前、霊長類の誕生以来、僕たちが抱えている終りなき問いだ。

したがって、「何を食べればよいのだろう?」という問いは、本書を読んで、

  • (アメリカの)スーパーに並ぶ食品のほとんどが、石油化学肥料を原料として"製造"されたトウモロコシから精製された栄養素を原料として工業的に加工されたものであり、肉も鶏も(養殖の)魚も、みんな元をただせばトウモロコシである。たとえばチキンナゲットはトウモロコシを食べて育った鶏にトウモロコシを加工した衣をつけて、トウモロコシ油で揚げてある。一緒に飲むコーラの甘味はトウモロコシを加工して作った合成甘味料である。
  • 加工食品の多くはさまざまに工業的な手が加えられている。某ハンバーガーチェーンの
  • 「オーガニック食品」とは、有機肥料を使わず、牧歌的な農場で昔ながらのやりかたで生産された作物ではなく、法で禁止されたいくつかの化学物質を使わずに生産した、そしてそのために遺伝子組み換えなどがなされた作物と家畜をもとに生産された食品のことである

などと言うことを知る以前から持っていないといけない問いである。

そのことは著者も繰り返し述べている。しかし、本書でつまびらかにされるアメリカの食品産業の恐るべき実態を知ると、たしかに誰しもが「何を食べればよいのだろう?」と嘆かざるを得ない気持ちはわかる。僕だってそうだ。

けれども。

工業的に製造される食品がいかにひどいものであり、あきらかに体に悪いものが含まれていたとしても、そこで食品の成分を吟味して「食べるべきものリスト」を作るような行為にはしってしまったら、何にもならない。それこそ、現代アメリカ人がやっていることだ。

アメリカの通説では、ある特定の美味しい食べ物は毒だと決めつけられる(いまは炭水化物、昔は脂肪)。そして食事をどのように食べるのか、あるいは食に対してどう考えるかが、実は食べ物そのものと同じくらい大切だということ認識されていない。フランス人は、不健康なはずのものをたくさん食べる。だが、厳しくしっかりとしたルールのもとにそうしているのだ。まず大量に食べたり、お代わりすることはしない。間食も、個食も滅多にない。人と一緒に食事をすることは、長く楽しいイベントなのだ。つまりフランスの食文化は、雑食動物のジレンマとうまく折り合いをつけており、健康を害さない食の楽しみを実現しているのだ。(p. 106)

とすると、本書を読んで反省すべきは、「何を食べればいいのだろう?」ではなく、「いかに食べればいいのだろう?」である。一言でいえば食文化だ。

本書で語られる「食文化」とは、食べる際のルールやマナーだけにとどまらないない。いかに食べるか、ということには、誰からどうやって調達するか、また、調達した食品はいかにして作られたのか、たとえばそれがハンバーグなら、その肉のもととなった動物はどこで、どのように、何を食べて育ったのか、それはどこで、誰が、どのように、ハンバーグに加工され、その過程で何を添加されたのか、を知っておく、ということも含まれる。

じゃあ昔の人や狩猟採集民やフランス人は、そういうことをよく知って食物を選択していた/いるのだろうか。 そんなことはない。昔の食事は、もっとシンプルだったのだ。自分の見知らない、とんでもないものが添加されたりしてなかったし、遥か地球の裏側から輸送されてくることもなかった。ほとんどの食品は自分の住んでる地域の(ヒトを含む)生態系の中で育まれており、そしてその生態系は信頼のおけるものだったのだ。

食文化をもつとは、私たちの前に食事が提供されるまでの過程、すなわち生態系はどんなものか、ということを知り、その生態系を信頼するとともに、その生態系を持続させるような食事ルールをもつということだと言える。

余談だが、フランスのレンヌにある研究施設を訪問したとき、夕食に何がよいかと聞かれ、地元のものが食べたいと言ったら、旅籠のレストランで、村の猟師がそこの森で狩猟したというイノシシの料理をごちそうになったことがある。

一方、現代の僕たちを支える生態系、すなわち工業的食物供給システムについて、僕たちは何も知らず、その安全性は信頼のおけるものではなく、そして僕たちはそれを持続可能なやりかたで使っていない。

鶏(学名ガルスガルス)がチキンマックナゲットになるまでの経緯は、いわば忘却という旅である。その旅は、動物の痛みだけでなく、私たちの喜びという意味でも大きな代償を伴う。だが、忘却や、あるいは無知こそ、工業的食物連鎖の特徴であり、それがそんなにも不透明な理由なのだ。(p. 19)

どんなに"文明的に"暮らしていようと、人間も生物である以上、僕たちはどこかの生態系の中にニッチをみつけて生きなくてはならず、食物連鎖のサイクルの一部を成さねばならない。しかし、現代の僕たちの食物連鎖サイクルでは、僕たちの前にお化けのような「工業的システム」がでんと構えている。そして、そのシステム内部で行われることがあまりに多く、かつ複雑で、しかも隠蔽されている。

さらに、工業的システムのその前にあるのは、石油だ。石油が形成されたのははるか昔のことで、いかにして形成されたのかはよくわかっていない。では、僕たちの後にあるのは...NOxとCO2、そして化学廃棄物だ。そのさらに後には? 何もない。僕たちは、今、そういう生態系の中で生きている。

本書によってそういうことを知ってしまった今、僕たちは、なんとかして別の生態系に乗り換えたくなる。化石(燃料)のかわりに「生きている」土壌や河川などの非生物的環境をもとに、工業的システムのかわりに現存する他の多くの動植物の相互作用から生みだされる食物を消費し、僕たちが消費したあとのもろもろは、再び土に還るような、循環的で持続的な生態システムに。えらく理想主義的だが、今や、こういうことを本気で考えなくてはならない時代になっていると思う。

本書の最後で、著者はすべてを自分で採集、狩猟したものを、すべて自分で調理した「完璧な食事」を作りあげる。それをマックの食事とは正反対のものであった。

この二つの食事は、食の両極端に位置している。(中略)前者の食の喜びは、ほぼ完璧な知識に基づいており、後者のそれは、完璧な無知に基いている。前者の多様性は、自然界の多様性、特に森の多様性をそのまま映し出し、後者のそれは、工業の巧妙さを正確に映し出している。

しかし、同時に著者はそれを日常的にするのはまったく現実的でないと言う。あたりまえだ。現代の僕たちは、そういう食事は道楽、あるいは贅沢としてしかできないのだ。生態系の乗り換えは一人ではできないし、本気で今すぐそれをやろうとしたら、食べる以外のすべてを犠牲にしなくてはならない。社会全体を変えないといけないし、それには時間がかかる。工業的サイクルが今みたいになるのにも、50年くらいはかかっている。それをやめるのには、もっと長い時間が必要だろう。

そう考えると、やっぱり「今、何を食べればよいのだろう?」と問いたくなる。が、それはもうやめておこう。幸いなことに、僕たちは雑食動物だ。本能に従い「環境中に利用可能(available)なもの」の中から、「食べられる (edible)もの」を食べるしかないのだ。工業食品も含めて。18世紀にシベリア探検をしたベーリングの一行は、道中糧食が尽き、とうとう革靴を煮て食べたと「おろしや国酔夢潭」に書いてあった。だったら、工業食品だって食べられる(ひょっとしてジャンクフードより革靴のほうがまだましかもしれないということはさておき)。なにしろ、今は「食べられるもの」はあっても「食べ物(food)」がないのだから。

ところで、本書に書かれている工業的食物連鎖の様態には、アメリカに特有の部分もあって、まだ日本は本書ほどひどくはないと思う。スーパーでは丸のままの野菜を買えるし、主食の米は穀粒の状態で家庭にもちこまれる。だが、油断していると、早晩日本も本書のような状態になりかねない。(現に、若い人と話していると、炊飯器を持っていなかったり、家でまったく調理をしなかったりする人は、確実に増えている。)それを避けるには、ライフスタイルの見直しだけでなく、農政や貿易政策についてもっと主体的に情報を集め、意見をもつことが重要だと強く感じた。本書で描かれた工業的食物システムの実態を読んで、BSEと牛肉輸入規制の問題や、事故米の流出事件、農薬冷凍ギョーザの事件などの見かたが変わってきた。

2009年11月29日

[読書] 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (内山節著 講談社現代新書)

アフリカでフィールドワークをしていると、しばしば不思議なできごとに遭遇する。呪術や超常現象は、ありふれているとまでは言わないが、調査をしている我々の日常の身近に「フツーに」存在している。今年の2月にも、キャンプに幽霊が出て、たいそう困ったそうだ。いまや僕は、それが科学的か否か、あるいは事実か妄想か、ということに拘泥する暇はなく、それがそのように存在していることを受け入れている。

なんてことを知人や学生に話すとびっくりされる。だが、日本人も、ちょっと前にはそんなふうに、キツネにばかされる日常を生きていたのだ。それが、1965年ごろを境に、急激に日本人がキツネにだまされることがなくなってしまったのだよ。それはなぜだろう? という疑問をスタートポイントに、1965年以前の日本人の自然観を歴史哲学の立場から論じたのが「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)」だ。

読みはじめに期待していたのは、「なぜ1965年を境にしているのか」ということへの答えだった。だが、そのことへの明確な答えは記されていない。1965年ごろに大きく変容した日本人と自然の関係、社会構造などなどが書かれているのみである。

むしろ本書で論じられているのは、「なぜ昔の人はキツネにだまされていたのか」あるいは「キツネにだまされていた日本人はどういう世界を生きていたのか」ということだ。

こんな問いに対し、深く考えずにいると、きっとこんな答えになるだろう。昔の人は、自然と身近に接し、自然と調和しながら生きていたからだと。そして、今の人がキツネにばかされないのは、そういう自然との関係を断ってしまったからだろうと。

しかし、著者の論考は意外な方向に進む。もちろん、昔の人は、今よりもずっと「自然と身近にかかわりながら」生きていた。だが、そのかかわりあいは「調和」ではない。いや、客観的に見れば調和なのかもしれないが、生きていた人々の身体や生命にとっては調和ではなかった。

かれらは普段に自然から何かを得たり、自然と対立してきた。それは、現代的視点から見れば自然の搾取でも自然破壊でもなかった。むしろ自然の恵みを享受していたのだといってよい。けれど、その時を生きていた人々はどう考えていたのか。

著者は、自然からの搾取と自然の恵みの享受とのあいだに明確な線引きをするのは本質的な困難だという。両者の違いは、前者は「欲」がからんだ行為であり、後者は純粋な生命的な行為であるという点であり、客観的に測定できる(と期待される)「自然へのインパクトの強さ」ではない。客観的に線引きできない以上、人は「それはわが身の「欲」のなせることなのか」に対し、明快に否定することができない。そこに悩みや罪の意識が生じる。つましく暮らしているつもりでも、ひょっとしたら悪をはたらいていしまっているかもしれない。自然の側からのメッセージによく耳を傾けておかないと、それに気づかないかもしれない。キツネにばかされるというのは、自然の側からのメッセージのひとつのありかたと考えられる。

しかし、昔の人は「自然の恵みを享受する」ことすら、実は悪であると考えていたのではないかと著者は言う。人間は、普通に村での暮しをつつましく送っていても、本質的に悪なのだ。普通の暮しを続けていると人々はかならずケガレてしまう。それはカタギの世界を生きるわれわれの居因業としか言いようがない。つまり、昔の人は、生きていることは悪であるととらえていたということだ。

僕は、自然保護というのは、人間だけの幸福を追求するのでも、(一部の過激保護運動家がいうように)人間存在を悪とみなして糾弾するものでもなく、両者が共有できる幸福を追求するものだと信じていた。そして、人と自然がともに"幸福"であるようなありかたはきっと存在すると信じていたし、またそう信じることこそ重要なのだと考えていた。

だが本書を読んで、その考えが揺らいだ。自然保護というのは、ハッピーな未来を構築するための手段として成立させることは不可能で、自然への贖罪行為としてしかありえないのかもしれない。どうだろうか。もう少し考えてみよう。