2011年1月23日

[読書] 工藤順一「文書術―読みこなし、書きこなす」(中公文庫)


文書術―読みこなし、書きこなす (中公新書)
工藤 順一
中央公論新社
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先日やっと卒論発表会が終わった。あらためて、学生に文章を書かせることの大変さを実感した。どうしたら学生が「書ける」ようになるのか。4年間かれらと接してきて、「書けない」ことの背景にあるさまざまな問題は理解できた。しかしどうすればいいのかわからないでいる。


学生が(というか人が)文書を「書けない」ということは、次のようないくつもの「できない」の複合産物である。


    1. 表現を知らない、語彙がない。(=言葉にできない)
    2. 文法を知らない。(=文を作れない)
    3. 文章構造を組めない。
    4. 知識がない、知識を得る方法を知らない。
    5. 事象をもとに考える力がない。


これらをひとつひとつクリアするのは難しい。たとえば単語帳を使って語彙を増やしたところで文章が書けるようにはならないし、文章構成などの作文作法を教えても、言葉を知らなければ文が書けない。あちらをたてればこちらがたたずで、個々の能力を高めるためのトレーニングをしても作文は改善されないので、学生たちもトレーニングの効果を実感できず、長続きしない。


本書には、これらいくつもの「できない」をまとめて克服するためのさまざまな方法が提案されている。たとえば「こぼちゃん作文」。4コマ漫画の「こぼちゃん」を"ノベライズ"するという課題だ。状況説明だけでなく、面白さもちゃんと伝わるようにしなくてはならない。


スゴイ!と思ったのは、「考えるとはどういうことか」についての割り切った考え方だ。著者は考えるということを「似ているものをさがす」「別の言葉で言い換える」「別のものと比較する」など12の行為に分ける。そして、考えるとはそれら12の行為の一部または全部を行うことであると言い切る。


たとえば「メガネについて考えを述べよ。」と言われたら、とりあえず「メガネ」を別の言葉で言い換えてみたり、コンタクトレンズと比較したり、メガネと似ているものを探したりすればよい。そしてそれらを文章に記せば、それは「メガネについての考え」をまとめたことになるのだ。「メガネとは視力矯正器具である。メガネに似たものにはコンタクトレンズがある。コンタクトレンズは小さくて眼球に張り付けるものだが、メガネは普通フレームにはめられた凸面ガラスである。」という感じ。今ぼくはこの文章を何の資料も用いずに書いた。ということはこれが僕のメガネについての「考え」だが、これはまずメガネを別の言葉(視力矯正器具)で言い換え、そして似ているもの(コンタクトレンズ)をあげ、それとメガネとを比較しただけである。


これは一見事実の羅列に見えるが、そうではない。ぼくのオリジナルの考えだ。なぜならメガネ=視力矯正器具とは限らないからだ。「メガネとは視力矯正器具である」と言い切ったのはぼくにほかならない。


考えを述べるってこんなんででいいわけ? という学生の驚くようすが目に浮かぶようだが、これでよい。少なくとも何も書けないよりずっとましだ。こんなんでいいなら、きっと学生もとりあえずすいすい書けるだろう。内容が優れているかはともかく。


この「とりあえず書ける」ということはとても大事だ。なぜなら「とりあえず書く」ことで考えは深まるからだ。現にぼくは今とりあえず書いたことで、視力を矯正しない伊達メガネもあるじゃないかとか、コンタクトレンズがメガネと似ているのは機能面であって、形なら水泳用のゴーグルが似てるじゃないかとか、いろんなことを自然と考えはじめた。


こうしたノウハウはもともと子どもたちへの作文指導のノウハウとして著者が開発してきたものだそうだ。だが、十分大人にも通用する。来年の卒論指導用のテキストとして採用したい。


2011年1月12日

[読書]岡村道雄「旧石器遺跡捏造事件」(山川出版)

旧石器遺跡捏造事件
旧石器遺跡捏造事件
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岡村 道雄
山川出版社
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出張の帰りに立ち寄ったアバンティ京都駅前ブックセンターで平積みになっていたのを見つけ、ぱらぱらとめくっているうちにちゃんと読みたくなって購入した。著者は捏造者の極めて近にいて、ある意味彼の捏造した「成果」にお墨付きを与えた人物だという。そういう人物が、長期に渡るあからさまな捏造がなぜ可能だったのかを考察した本だという。しかも最近捏造者本人と再会し、インタビューもしたという。非常に興味をそそられた。

しかし、結果として読後感は肩透かし以外の何ものでもなかった。まず、捏造者本人はほとんどのことを「忘れてしまった」と言って結局何も明かしていない。捏造した「ゴッドハンド」の指を切り落としていたという事実は、それを本書で初めて知る人には衝撃的かもしれないが、ずっと前からWikipediaに掲載されていた程度の情報だ。

周囲がなぜ見抜けなかったのか、という疑問に対しては、お決まりの「学問のすすめ方に問題があった、発見の妥当性を検証する姿勢に欠けていた」というお題目以上のことは述べていない。

が、本書を読んでいくつかわかったことがある。それは著者の伝えたかったこととはだいぶ違うかもしれないが。

1 当時、捏造はとっても簡単だったようだ。

調査隊はみんな自分の受け持ちを発掘していて、隣の人が何をしているかなど見ていないそうだ。また、夕方~朝までの現場の管理もいいかげん。事件以降、捏造を防ぐための対策がなされたとかかれているが、それらの対策はすべて「掘り出されたもの」が本物かどうかを精密に検証するというもので、誰かが何かを「埋めないように」する対策についてはほとんど記されていない。記されてないだけで対策はしているという可能性はあるが、それもやや不自然だ。だから現在でも「埋めさせない対策」はあんまりしてないんじゃないかと思う。

だから、もともとちょっとした捏造は日常茶飯事だったのじゃないかな、とつい思ってしまった。

2 毎日新聞のスクープ以前から、近い関係者はみんな見て見ぬふりをしていたようだ。

本書ではいかにも「疑念はあったがまさかと思っていた。」というふうに記述されているが、おかしすぎる。だって各地の遺跡のほとんどで、藤村氏が第一発見者、というかすべてを発見していたんだから。見つからないと彼を呼んだという感じすらある。それから、「一緒にこれがでないとおかしい」と指摘すると翌日はそれが発掘されたんだって。著者は意図せず藤村氏のつじつま合わせを手伝う結果になっていたと反省してみせるが、うーん、僕は信用できないな。共犯ではないとしても、わかってたでしょ、と言いたい。

3 藤村氏の捏造に周囲がだまされたのは(本当にだまされていたのだったとしたら)、彼の掘り出す「成果」が周囲の研究者の予測に合致していたからではなく、単に「より古い地層からすごいものが出てきていたから」だったようだ。

著者は業界の姿勢に問題があったというが、どう問題だったかをつっこんで反省していない。発見重視の姿勢に問題があったようなことは述べている。しかし僕にはむしろ逆に思える。かれらは、発見を等しく重視するのではなく、うれしい発見とうれしくない発見を分けていたのだ。さらに、うれしい発見とは自らの学説にマッチする発見ではない。古ければよい的な発想だ。

ピルトダウン事件は「人類の祖先は『頭は人間、体は類人猿』である」という学説を支持する人たちがやったのだろうし、それにとびついたのはやはりその説を支持する人々だった。学説そのものは論理的というよりむしろ「願望」に近いものだったけれど、ともかく学術の世界で議論されていたことだったのだ。

けれども、藤村氏は自分で何らかの学説を唱え、それに沿って捏造していたのではない。また、著者をはじめ周囲の関係者たちも、自分の説にマッチする捏造だったからだまされたのでもない。藤村氏はただ一般人にうけそうなことをやり、関係者はみんなにうけるから深く考えずに迎合していた。

なんか、ほんとにしょうもない事件だったのだなぁ。ということがよくわかる一冊であった。