2012年7月 3日

ふたたび「雑食動物のジレンマ」〜なぜ生レバーは危険な食品になったのか?

厚生労働省は7月1日以降、飲食店等で生レバーを出すことを禁止した。禁止した理由は、生レバーにはO157などの毒性の強い大腸菌が含まれている可能性が高く、危険だからだ。

危険だから禁止しているのに、NHKを含むマスコミは6月末に焼肉店等で駆け込みで生レバーを食べる人たちを面白おかしく報道し、生レバー食を煽った。もしあれで被害がでていたらどうするつもりだったのだろう?

僕はユッケは好きだったので、去年のユッケ禁止は残念だったが、生レバーは別に好きじゃないのでどうでもいい。それはともかく、もはや牛の臓器は生で食べてはいけないということをよくよく認識したほうがよさそうだ。

生レバーにせよユッケにせよ、法的に禁止するのはおかしい、というような議論がある。生レバーや生肉を食べる食文化は、国内外で長い時間をかけて育まれてきたものだ。昔からリスクはあった。リスクのない食品なんてない。たまたま衛生管理のよくない店で食中毒が発生したからといって、全面禁止はおかしい。リスクを周知して、自己責任で食べるようにしたらいいではないか、というわけだ。

なんでもかんでも法律で禁止するのは僕も嫌いだ。だが、この議論には賛成できない。なぜなら、この議論は、今あるリスクが昔からあったものだとしているが、それは大きな間違いだからだ。

そう、昔は生レバーや生肉による感染リスクは低かったのだ。しかし、肉牛の身体は人間を詞に至らしめる病原性細菌によってすっかり汚染されてしまっているのだ。

なぜそんなことになったのだろう?マイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ ──ある4つの食事の自然史」によると、それは現代の肉牛は牧草でなくトウモロコシ飼料を食べているからだという。

牛は本来、草食動物だ。しかし、栄養価の低い牧草で育てるより、高カロリーのトウモロコシ飼料で育てた方が効率的だ。だから今の肉牛はトウモロコシで育つ。

牛の腸内にもたくさんの腸内細菌がいる。草を食べる牛の腸内はほぼ中性なので、腸内細菌は中性の環境に適応している。

これに対して、雑食動物である人間の胃は強い酸性である。牛の腸内細菌に汚染された肉やレバーを摂取しても、それらの細菌は胃を通過できずほとんど死滅してしまう。だから生で食べてもそんなに危険はない。

ところが、トウモロコシで育つ牛の腸内は人間に負けず劣らず酸性である。そのため、腸内細菌は酸性に適応する。だから、トウモロコシで育った牛の腸内細菌は人間の胃をスルーできる。

それらの腸内細菌は人間だけでなく牛にも有害である。だから牛たちはたくさんの抗生物質を投与されて育つ。すると、抗生物質に耐性のある、強烈な大腸菌が進化した。

その中には、人間に感染すると重篤な症状をひきおこすものがある。O157はその一種だ。だから、今の牛は危険なのだ。

ユッケや生レバーの事件や、産地偽装問題、数年前の農薬入り冷凍餃子事件などによって、われわれは、食卓にあがる前の食品がどう扱われているかについて無知だったことを思い知った。そして、そういうことにとても敏感になった。おかげで食品業界は衛生管理にものすごく気を使わねばならなくなった。

それ自体はいいことだ。だがわれわれは、食品が食品になるまでのプロセスについては、食品の取扱いプロセス以上に無知なのだ。見た目は同じ生レバーでも、どこで生産された牛のレバーなのか、その牛はどんな餌を食べていたのか、そしてその餌はどうやって栽培されたのか、を考えると、今の生レバーは昔の生レバーとはまるきり別物であることに気づく。

本当に食文化として生レバー食を守りたいのなら、そういうことに目をつむって法律に反対するだけではまったく不十分だ。食文化としての生レバー食は、肉牛の飼育に関する文化によって支えられていたのである。法律による禁止が食文化を破壊するのではない。逆である。食文化が破壊されてしまったから法律で禁止するのだ。

雑食動物のジレンマ 上──ある4つの食事の自然史
マイケル・ポーラン
東洋経済新報社
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2011年9月21日

動物行動学的「子育て」の捉え方の入門書

イヴの乳―動物行動学から見た子育ての進化と変遷
小原 嘉明
東京書籍
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誠実な本だ。「子育て」を動物行動学の視点でとらえるとどうなるのか、さまざまな動物(魚類、昆虫、鳥類、哺乳類など)の実際の研究例を挙げて丁寧に説明している。類書には動物行動学(進化生物学)の理論を乱暴に現代社会にあてはめ、科学の名を借りて自分の子育て観を押し付けるような著作もあるが、本書はそのような態度とは一線を画している。子育てに関連する動物行動学の理論的枠組みを紹介し、豊富な実例でそれらをわかりやすく示している。

生物学者の目には、本書の内容は特に目新しくは映らない。内容的にはきわめてオーソドックスといってよい。

特筆すべきはその文章、文体だ。平易な言葉で実にわかりやすく書いてある。また、押し付けがましさがない。穏やかな口調で丁寧に語りかけられているような感覚を得られる。

進化生物学者が人間について語る本として、これは異例のことではないかと思う。動物学者や進化学者は人間について語るとき、えてして「文系の人々は人間は特別だとかいいますけど、人間も生物の一員であり進化の産物であることは科学的、客観的な事実なんですよっっっ!」みたいなことを口走ってしまうのだけれど、本書にはそういう攻撃的な感じは皆無である。

だから、本書は「子育ての本」というより楽しい動物読み物としても十分価値がある。むしろ、本書から現代社会における子育ての問題について直接的な答えを得ようとする人にとっては物足りないかもしれない。終わりのほうで現代社会の子育てをめぐる問題について多少論じているが、類書のようにそれを強引に動物行動学に結びつけて解釈したり処方箋を示したりはしていない。だがそれも著者の誠実さのあらわれだろうと私は思う。

最近、霊長類学から子育てについて何か語ろうという野心を抱いた私にとっては大変参考になる本だ。同時に、うちの大学の学生に対して子育ての生物学的側面を教えるのに格好の参考書になる。「文系」の保育系、教育系の方々にはぜひ本書をお読みいただきたい。

2011年1月23日

[読書] 工藤順一「文書術―読みこなし、書きこなす」(中公文庫)


文書術―読みこなし、書きこなす (中公新書)
工藤 順一
中央公論新社
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先日やっと卒論発表会が終わった。あらためて、学生に文章を書かせることの大変さを実感した。どうしたら学生が「書ける」ようになるのか。4年間かれらと接してきて、「書けない」ことの背景にあるさまざまな問題は理解できた。しかしどうすればいいのかわからないでいる。


学生が(というか人が)文書を「書けない」ということは、次のようないくつもの「できない」の複合産物である。


    1. 表現を知らない、語彙がない。(=言葉にできない)
    2. 文法を知らない。(=文を作れない)
    3. 文章構造を組めない。
    4. 知識がない、知識を得る方法を知らない。
    5. 事象をもとに考える力がない。


これらをひとつひとつクリアするのは難しい。たとえば単語帳を使って語彙を増やしたところで文章が書けるようにはならないし、文章構成などの作文作法を教えても、言葉を知らなければ文が書けない。あちらをたてればこちらがたたずで、個々の能力を高めるためのトレーニングをしても作文は改善されないので、学生たちもトレーニングの効果を実感できず、長続きしない。


本書には、これらいくつもの「できない」をまとめて克服するためのさまざまな方法が提案されている。たとえば「こぼちゃん作文」。4コマ漫画の「こぼちゃん」を"ノベライズ"するという課題だ。状況説明だけでなく、面白さもちゃんと伝わるようにしなくてはならない。


スゴイ!と思ったのは、「考えるとはどういうことか」についての割り切った考え方だ。著者は考えるということを「似ているものをさがす」「別の言葉で言い換える」「別のものと比較する」など12の行為に分ける。そして、考えるとはそれら12の行為の一部または全部を行うことであると言い切る。


たとえば「メガネについて考えを述べよ。」と言われたら、とりあえず「メガネ」を別の言葉で言い換えてみたり、コンタクトレンズと比較したり、メガネと似ているものを探したりすればよい。そしてそれらを文章に記せば、それは「メガネについての考え」をまとめたことになるのだ。「メガネとは視力矯正器具である。メガネに似たものにはコンタクトレンズがある。コンタクトレンズは小さくて眼球に張り付けるものだが、メガネは普通フレームにはめられた凸面ガラスである。」という感じ。今ぼくはこの文章を何の資料も用いずに書いた。ということはこれが僕のメガネについての「考え」だが、これはまずメガネを別の言葉(視力矯正器具)で言い換え、そして似ているもの(コンタクトレンズ)をあげ、それとメガネとを比較しただけである。


これは一見事実の羅列に見えるが、そうではない。ぼくのオリジナルの考えだ。なぜならメガネ=視力矯正器具とは限らないからだ。「メガネとは視力矯正器具である」と言い切ったのはぼくにほかならない。


考えを述べるってこんなんででいいわけ? という学生の驚くようすが目に浮かぶようだが、これでよい。少なくとも何も書けないよりずっとましだ。こんなんでいいなら、きっと学生もとりあえずすいすい書けるだろう。内容が優れているかはともかく。


この「とりあえず書ける」ということはとても大事だ。なぜなら「とりあえず書く」ことで考えは深まるからだ。現にぼくは今とりあえず書いたことで、視力を矯正しない伊達メガネもあるじゃないかとか、コンタクトレンズがメガネと似ているのは機能面であって、形なら水泳用のゴーグルが似てるじゃないかとか、いろんなことを自然と考えはじめた。


こうしたノウハウはもともと子どもたちへの作文指導のノウハウとして著者が開発してきたものだそうだ。だが、十分大人にも通用する。来年の卒論指導用のテキストとして採用したい。


2011年1月12日

[読書]岡村道雄「旧石器遺跡捏造事件」(山川出版)

旧石器遺跡捏造事件
旧石器遺跡捏造事件
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岡村 道雄
山川出版社
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出張の帰りに立ち寄ったアバンティ京都駅前ブックセンターで平積みになっていたのを見つけ、ぱらぱらとめくっているうちにちゃんと読みたくなって購入した。著者は捏造者の極めて近にいて、ある意味彼の捏造した「成果」にお墨付きを与えた人物だという。そういう人物が、長期に渡るあからさまな捏造がなぜ可能だったのかを考察した本だという。しかも最近捏造者本人と再会し、インタビューもしたという。非常に興味をそそられた。

しかし、結果として読後感は肩透かし以外の何ものでもなかった。まず、捏造者本人はほとんどのことを「忘れてしまった」と言って結局何も明かしていない。捏造した「ゴッドハンド」の指を切り落としていたという事実は、それを本書で初めて知る人には衝撃的かもしれないが、ずっと前からWikipediaに掲載されていた程度の情報だ。

周囲がなぜ見抜けなかったのか、という疑問に対しては、お決まりの「学問のすすめ方に問題があった、発見の妥当性を検証する姿勢に欠けていた」というお題目以上のことは述べていない。

が、本書を読んでいくつかわかったことがある。それは著者の伝えたかったこととはだいぶ違うかもしれないが。

1 当時、捏造はとっても簡単だったようだ。

調査隊はみんな自分の受け持ちを発掘していて、隣の人が何をしているかなど見ていないそうだ。また、夕方~朝までの現場の管理もいいかげん。事件以降、捏造を防ぐための対策がなされたとかかれているが、それらの対策はすべて「掘り出されたもの」が本物かどうかを精密に検証するというもので、誰かが何かを「埋めないように」する対策についてはほとんど記されていない。記されてないだけで対策はしているという可能性はあるが、それもやや不自然だ。だから現在でも「埋めさせない対策」はあんまりしてないんじゃないかと思う。

だから、もともとちょっとした捏造は日常茶飯事だったのじゃないかな、とつい思ってしまった。

2 毎日新聞のスクープ以前から、近い関係者はみんな見て見ぬふりをしていたようだ。

本書ではいかにも「疑念はあったがまさかと思っていた。」というふうに記述されているが、おかしすぎる。だって各地の遺跡のほとんどで、藤村氏が第一発見者、というかすべてを発見していたんだから。見つからないと彼を呼んだという感じすらある。それから、「一緒にこれがでないとおかしい」と指摘すると翌日はそれが発掘されたんだって。著者は意図せず藤村氏のつじつま合わせを手伝う結果になっていたと反省してみせるが、うーん、僕は信用できないな。共犯ではないとしても、わかってたでしょ、と言いたい。

3 藤村氏の捏造に周囲がだまされたのは(本当にだまされていたのだったとしたら)、彼の掘り出す「成果」が周囲の研究者の予測に合致していたからではなく、単に「より古い地層からすごいものが出てきていたから」だったようだ。

著者は業界の姿勢に問題があったというが、どう問題だったかをつっこんで反省していない。発見重視の姿勢に問題があったようなことは述べている。しかし僕にはむしろ逆に思える。かれらは、発見を等しく重視するのではなく、うれしい発見とうれしくない発見を分けていたのだ。さらに、うれしい発見とは自らの学説にマッチする発見ではない。古ければよい的な発想だ。

ピルトダウン事件は「人類の祖先は『頭は人間、体は類人猿』である」という学説を支持する人たちがやったのだろうし、それにとびついたのはやはりその説を支持する人々だった。学説そのものは論理的というよりむしろ「願望」に近いものだったけれど、ともかく学術の世界で議論されていたことだったのだ。

けれども、藤村氏は自分で何らかの学説を唱え、それに沿って捏造していたのではない。また、著者をはじめ周囲の関係者たちも、自分の説にマッチする捏造だったからだまされたのでもない。藤村氏はただ一般人にうけそうなことをやり、関係者はみんなにうけるから深く考えずに迎合していた。

なんか、ほんとにしょうもない事件だったのだなぁ。ということがよくわかる一冊であった。

2010年12月 5日

たった1分で人生が変わる片づけの習慣(小松易、2010年)



たった1分で人生が変わる 片づけの習慣
小松 易
中経出版
売り上げランキング: 1035

日経ビジネスアソシエで紹介されていて、よさげだったので立ち読みした挙句に購入してしまった。片付けが苦手な僕は研究室も自宅も散らかり放題で、しばしば「大掃除」をするのだがたいてい元の木阿弥になってしまい、苦しんでいる。

しかし、1週間ほどこの本の言うとおりに片付けを実践しているうちに、これはひょっとして革命的な本かもしれないと感じた。もっとも、それは部屋が片付くかもしれないという期待であり、人生が変わるかどうかは保証の限りではないが。

革命的、と僕が感じたのはこの本が推奨する「片付けサイクル」である。それは、

    1. 出す
    2. 分ける
    3. 減らす
    4. しまう

という4つの行動の連鎖だ。ある場所、たとえば引き出しの中のものをいったん全部机上にだし、いるものといらないものに分け、いらないものを捨てるか人にあげるかして減らし、最後にいるものだけを元の場所にもどす。ここで重要なのは、元の場所もどすというところだ。元の場所に、というところが革命的なのだ。(僕にとっては)

きっとこれは片付けが得意な人には当然すぎて革命的だとは思えないだろう。だって、そもそも片付けるって元の場所に戻すってことだもんね。ところが、片付けが苦手な人は元の場所に戻すのが苦手だから片付かない。

だったら元の場所に戻しましょうというのは当然のアドバイスで、やっぱり革命的でも何でもないじゃないかというと、そうではないのだ。片付いていない人は、「物を元の場所に戻していない」から片付いていないと考えている。言い換えると、「今それがある場所は、もともとそれがあるべき場所ではない」と考えているのだ。つまり、片付け下手にとって、片付けとは「それを今現在ある場所から、どこか別の、本来あるべき場所に移動させること」だと考えているのである。

そして、本書以外のいわゆる「片付けマニュアル」ではその思考にそって、物をどうやって移動させると片付くか、ということについて書かれている。典型的なのが次のようなやつだ。

「今散らかっているものを一旦全部ダンボールに入れてしまいなさい。そして、これからは必要なものだけをそこから取り出し、決め直した収納場所に片付けなさい」

片付け下手がこのやり方をするとどうなるか。経験者なら容易にわかると思うが、というか(僕の部屋のように)そうなっていると思うが、去年のダンボール、一昨年のダンボール、というふうに、片付けを決意した時につくったダンボールがたまっていくのである。

本書がいう「元の場所」というのは、本来あるべき場所という意味ではない。片付けを始める時にあった場所のことだ。ここに本書の革命性がある。

散らかしたその場所に戻したら結局片付かないじゃないか、と思うかもしれない。しかし実際やってみるとかなり「片付く」。なぜかというと、次のような効果があるからだ。

    1. まず、いらないものを捨てるので物が減る。すると、元の場所に戻しても嵩が減るのでスペースができる。
    2. いくつかの物は分ける作業の中で「つい、本来の場所に戻してしまう」。要は所在不明だった物を見つけて、真の意味で片付けてしまうのだ。
    3. 上と関連するが、分ける作業の中で、たとえばやりかけの雑務の書類などを見つけて、それを終わらせてしまい、場所だけでなく仕事も片付く。
    4. 分けてる最中に、そこに何があるかを把握してしまう。だから、それまで「適当に積んであっただけ」の書類の山が「必要書類の山」になる。片付けの最終目的は「何がどこにあるか把握する」ことなので、極端な話、物が減らなくても片付いたことになる。

この方法にはもうひとつ革命的なことがある。それは、この方法だと「大片付け作戦」が不要なことだ。本書の中でも、片付けに何時間もかけない、むしろ時間をかけてはいけないと書かれている。引き出しひとつとか、書類ケースひとつとか、ちびちび、普段の仕事をやりながら進める。

本書では明言されていないが、元の場所に戻すという方法と、ちびちび片付けは密接に関連している。元の場所に戻すことによって、ちびちび片付けが可能になっているのだ。

物の移動をともなう片付け法をはじめると、たいていの場合「どこにしまえばいいのかわからない」物がでてくる。そしてその処理に時間がかかったあげく、とりあえずここにおいておこう、と新たな場所に物を置くことになり、かえってちらかるのだ。 

しかし、元の場所に戻すだけ、というのをくり返していると、やっぱりいつかは物が溢れかえってしまうのではないだろうか。それに対する本書の答えは「たいていの物には賞味期限がある」だ。つまり、たいていの物はいつか不要になり、捨てられる運命にあるというわけだ。

もしも捨てられない物が増え続けているとすれば、それはあなたが「始めた事」を終わらせていないということなんだ。要するに物を片付けるというのは、やりかけのことに「片をつける」ということなんだ。実に耳の痛い指摘であるが、真理だ。ほんと、いろいろ片をつけていかなくちゃ。

たった1分で人生が変わる 片づけの習慣
小松 易
中経出版
売り上げランキング: 1035