2009年11月29日

[読書] 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (内山節著 講談社現代新書)

アフリカでフィールドワークをしていると、しばしば不思議なできごとに遭遇する。呪術や超常現象は、ありふれているとまでは言わないが、調査をしている我々の日常の身近に「フツーに」存在している。今年の2月にも、キャンプに幽霊が出て、たいそう困ったそうだ。いまや僕は、それが科学的か否か、あるいは事実か妄想か、ということに拘泥する暇はなく、それがそのように存在していることを受け入れている。

なんてことを知人や学生に話すとびっくりされる。だが、日本人も、ちょっと前にはそんなふうに、キツネにばかされる日常を生きていたのだ。それが、1965年ごろを境に、急激に日本人がキツネにだまされることがなくなってしまったのだよ。それはなぜだろう? という疑問をスタートポイントに、1965年以前の日本人の自然観を歴史哲学の立場から論じたのが「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)」だ。

読みはじめに期待していたのは、「なぜ1965年を境にしているのか」ということへの答えだった。だが、そのことへの明確な答えは記されていない。1965年ごろに大きく変容した日本人と自然の関係、社会構造などなどが書かれているのみである。

むしろ本書で論じられているのは、「なぜ昔の人はキツネにだまされていたのか」あるいは「キツネにだまされていた日本人はどういう世界を生きていたのか」ということだ。

こんな問いに対し、深く考えずにいると、きっとこんな答えになるだろう。昔の人は、自然と身近に接し、自然と調和しながら生きていたからだと。そして、今の人がキツネにばかされないのは、そういう自然との関係を断ってしまったからだろうと。

しかし、著者の論考は意外な方向に進む。もちろん、昔の人は、今よりもずっと「自然と身近にかかわりながら」生きていた。だが、そのかかわりあいは「調和」ではない。いや、客観的に見れば調和なのかもしれないが、生きていた人々の身体や生命にとっては調和ではなかった。

かれらは普段に自然から何かを得たり、自然と対立してきた。それは、現代的視点から見れば自然の搾取でも自然破壊でもなかった。むしろ自然の恵みを享受していたのだといってよい。けれど、その時を生きていた人々はどう考えていたのか。

著者は、自然からの搾取と自然の恵みの享受とのあいだに明確な線引きをするのは本質的な困難だという。両者の違いは、前者は「欲」がからんだ行為であり、後者は純粋な生命的な行為であるという点であり、客観的に測定できる(と期待される)「自然へのインパクトの強さ」ではない。客観的に線引きできない以上、人は「それはわが身の「欲」のなせることなのか」に対し、明快に否定することができない。そこに悩みや罪の意識が生じる。つましく暮らしているつもりでも、ひょっとしたら悪をはたらいていしまっているかもしれない。自然の側からのメッセージによく耳を傾けておかないと、それに気づかないかもしれない。キツネにばかされるというのは、自然の側からのメッセージのひとつのありかたと考えられる。

しかし、昔の人は「自然の恵みを享受する」ことすら、実は悪であると考えていたのではないかと著者は言う。人間は、普通に村での暮しをつつましく送っていても、本質的に悪なのだ。普通の暮しを続けていると人々はかならずケガレてしまう。それはカタギの世界を生きるわれわれの居因業としか言いようがない。つまり、昔の人は、生きていることは悪であるととらえていたということだ。

僕は、自然保護というのは、人間だけの幸福を追求するのでも、(一部の過激保護運動家がいうように)人間存在を悪とみなして糾弾するものでもなく、両者が共有できる幸福を追求するものだと信じていた。そして、人と自然がともに"幸福"であるようなありかたはきっと存在すると信じていたし、またそう信じることこそ重要なのだと考えていた。

だが本書を読んで、その考えが揺らいだ。自然保護というのは、ハッピーな未来を構築するための手段として成立させることは不可能で、自然への贖罪行為としてしかありえないのかもしれない。どうだろうか。もう少し考えてみよう。


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