「森の中」と「森の底」
ここ数日雨がちで、今朝もぽつぽつしてた。雨とともに、花粉も流れていってくれーと願っていたが、どうなることやら。
とくに火曜日の大雨はすごかった。夜まで会議で、そのあと山道を車で帰るのがおそろしいほどだった。コンゴのンドキにいたころ、何度かキャンプで大雨に降りこめられたことを思い出した。
森で激しい雨が降ると、キャンプのバラックから一歩も出られない。トイレにゆくのも一仕事だ。おまけに雨音もすごくて会話もできない。雨に降りこめられるとはこういうことか、という感じだ。
けれど、考えてみると、ガボンで雨に「降りこめられた」というような覚えはあんまりない。 もちろん大雨は何度も経験している。どちらかというと、ガボンのほうがデカい雨が降る。
ガボンでは「降りこめられる」というより、「雨に降りさらされる」という感じだ。
同じ森での雨なのに、なんで感じ方が違うのだろう。思うに、それは森の深さの違いによるのだろう。
ンドキの森は高かった。そして、その高い森が連続していた。観察対象のチンパンジーやゴリラ、サルたちはその高い森の上のほうにいた。あそこまで浮かぶことができればな、と思いながら、あー、ここは深海の底ならぬ「森の底」だ、と感じたものだ。光もほとんど刺してこない。日がかたむくと、あっという間に周囲が闇につつまれた。
そんなところで大雨にあうと、森がほんとに深海になってしまったかのように感じる。キャンプはさながら壊れた深海潜航艇のようだ。
ガボンの森も、日本の森よりはるかに高い。けれど、ところどころに切れ目やギャップがある。虫食いのようにサバンナがあったりして、そんなところでは、光は横からも刺してくる。日中はかなり明るく、夕方になっても、なかなか暗くならない。モコモコとドーム状に分布する森の塊に入ったり出たりしながら調査をしている。朝、キャンプを出発すると、山陽新幹線がしょっちゅうトンネルに出入りするように、「森の中」に入ったり出たりしながら、一日を過ごしている。
プチロアンゴのキャンプはサバンナに作っていたし、ムカラバのキャンプもプランテーション跡の開けた場所だ。つまり、森の「外」にあるのだ。だから、そんなところで大雨に会うと、キャンプごと自分が雨にさらされてるように感じるのだろう。
どちらがよい環境ということはないのだが、心地良さということだけ考えれば、森の底にいた時間のほうが、幸せだったように思う。
とくに火曜日の大雨はすごかった。夜まで会議で、そのあと山道を車で帰るのがおそろしいほどだった。コンゴのンドキにいたころ、何度かキャンプで大雨に降りこめられたことを思い出した。
森で激しい雨が降ると、キャンプのバラックから一歩も出られない。トイレにゆくのも一仕事だ。おまけに雨音もすごくて会話もできない。雨に降りこめられるとはこういうことか、という感じだ。
けれど、考えてみると、ガボンで雨に「降りこめられた」というような覚えはあんまりない。
ガボンでは「降りこめられる」というより、「雨に降りさらされる」という感じだ。
同じ森での雨なのに、なんで感じ方が違うのだろう。思うに、それは森の深さの違いによるのだろう。
ンドキの森は高かった。そして、その高い森が連続していた。観察対象のチンパンジーやゴリラ、サルたちはその高い森の上のほうにいた。あそこまで浮かぶことができればな、と思いながら、あー、ここは深海の底ならぬ「森の底」だ、と感じたものだ。光もほとんど刺してこない。日がかたむくと、あっという間に周囲が闇につつまれた。
そんなところで大雨にあうと、森がほんとに深海になってしまったかのように感じる。キャンプはさながら壊れた深海潜航艇のようだ。
ガボンの森も、日本の森よりはるかに高い。けれど、ところどころに切れ目やギャップがある。虫食いのようにサバンナがあったりして、そんなところでは、光は横からも刺してくる。日中はかなり明るく、夕方になっても、なかなか暗くならない。モコモコとドーム状に分布する森の塊に入ったり出たりしながら調査をしている。朝、キャンプを出発すると、山陽新幹線がしょっちゅうトンネルに出入りするように、「森の中」に入ったり出たりしながら、一日を過ごしている。
プチロアンゴのキャンプはサバンナに作っていたし、ムカラバのキャンプもプランテーション跡の開けた場所だ。つまり、森の「外」にあるのだ。だから、そんなところで大雨に会うと、キャンプごと自分が雨にさらされてるように感じるのだろう。
どちらがよい環境ということはないのだが、心地良さということだけ考えれば、森の底にいた時間のほうが、幸せだったように思う。
コメントする