2008年6月20日

25歳は危いのか?

時事問題についてブログで論評するのは好きではないのだが、一言いいたくなった。

秋葉原の事件のあと、「25歳があぶない」ということを言いだす人がでてきた。なぜ25歳があぶないのかというと、神戸の連続児童殺傷事件の犯人と同い年だからだという。そういう主張をする人が言うには、同い年の人が犯した事件にすごく影響され、共感するんだそうだ。実際、神戸の事件の三年後に17歳の少年による事件があった。

はっきりいって、この主張は荒唐無稽だと思う。論理的に反論する点はたくさんある。だが、ここでは僕の経験をもとに反論したい。

5年前、僕は大阪のある女子大で非常勤講師をしていた。一般教養系科目として、人類学を担当していた。学年は2年生。今の25歳であり、神戸の事件の犯人と同い年の学生だった。

講義のはじめに「人間とは」という問いを考えてもらおうと思い、僕は学生にふたつの質問をした。ひとつは「人間的とはどういうことか?」 もうひとつは「非人間的とはどういうことか?」である。

提出された紙をみて、僕は少なからず衝撃をうけた。半数近くの学生が、「非人間的なこと」に対する回答として、「神戸の連続児童殺傷事件のようなこと」に言及していたのだった。

告白すると、僕はその時、あの事件のことを忘れていた。事件から6年が過ぎていた。事件当時、僕はかなり関心を抱いていたし、犯人がわからない時は身の危険も感じた(神戸から京都なんてすぐこれる)。犯人が中学生だったことに衝撃をうける一方、そのことにしんから驚いていない自分にも気付いていた。それでも、当事者でない僕は、6年たった頃には、日常生活でそのことを思い出すことなどなくなっていたのだ。

しかし、学生たちは覚えていた。「非人間的なこと」として。「あんなことは、人間がやることではない。ぜったいに違う。」と、感情的なまでに否定するコメントを書いた学生もいた。「同い年の人間として許せない」というコメントもあった。

その後、僕は授業のなかで「同種内殺し」について解説し、チンパンジーの子殺しなども説明しながら、「事実として、ヒトはヒトを殺す生物である。そして、同種内殺しをするのはヒトに近い生物に限られており、『ヒトらしさ』、つまり『人間的であること』の一部である」という話をした。それを心で受け入れるかどうかはともかく。

だが、学生たちの多くは納得しなかった。授業後に回収した感想用紙に、「わたしは絶対にサカキバラとは違う。殺しなどしない。」とわざわざ書いてきた学生も複数いた。

実は、その前後の年にも同じ大学で非常勤をし、講義の中で同じ質問を投げた。だが、上の学年も下の学年も、誰ひとり神戸の事件に触れた回答をしたものはいなかった。

僕はいいたいのは単純な、ひとつのことだ。思春期に、同い年の子が重大な事件をおこしたら、それはすごい衝撃になるだろう。心をゆさぶられ、そのショックは、何年も過ぎ、世間がすっかりそのことを忘れてしまった後にも、同い年のかれらの心に深く刻まれていることだろう。

だが、それは共感とは限らないのだ。中には共感してしまう子もいるだろうが、大多数は、衝撃が強い分、より強く、われわれ大人なんかよりもずっと強く、そのような行為を否定する気持ちとなるのだ。同い年だからこそ。

斎藤環は「思春期ポストモダン」の中で、いわゆる"若者論"の多くは、若者を自分とは異なるエイリアンとみなし、褒めるにせよけなすにせよ、ゴシップのように話のネタにしておもしろがっているだけだと述べているが、まったく同感だ。メディアで働く人間のなかにも、25歳の人間はたくさんいるだろうに、かれらはなぜ声をあげないのだろうか? 検索してみたら、人気のアナウンサーもいるではないか。

25歳があぶないというなら、宮崎勤と同い年の45歳は危なくないのか? 麻原彰晃の53歳は? 勝田清孝の60歳は? 大久保清の73歳は? 悲しいことだが、どんな世代にも唾棄すべき殺人者がいるのだ。

加藤に共感などしていない大多数の25歳の人たちには、くだらないレッテル貼りと中傷に負けず、がんばって生きてほしいと思う。

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