2008年6月22日

サル学の常識の現在

大学の地域貢献事業の一環で、市民講座で講演をした。

去年も同じ講座で講演したのだが、去年は開始時刻を30分勘違いして遅刻、という大失態を演じてしまった。今年は絶対に遅刻すまい、と、1時間前に会場に到着した。そのせいか、今年は去年より余裕をもって話すことができた。参加者は比較的高齢の方が多かったのだが、みなさん熱心に耳を傾けてくださってうれしかった。

テーマは「ゴリラとチンパンジーの共存と共生」だ。同じテーマで別の場所で何度か話しているのだが、過去の講演のプレゼンをもう一度ぜんぶ見直して、あらたに作りなおした。

結構いいプレゼンができたと思っていたのだが、参加者の方の講演中の反応をみて、いくつか考えさせられた。自分としては、かなり易しくかみくだいたつもりだったが、それでも、ところどころ、よくわからないという反応があったのだ。

それは、参加者の方が物を知らないということではなく、われわれが今まで「一般に知れわたっているサル学の知識」と思っていたものが、実は世間から忘れられているということだと思う。

立花隆が「サル学の現在」に書いているように、初期の「サル学」の成果は世間によく知られ、知識人の常識といってもよいくらいだった。「サルの群れには個体間の優劣関係があり、ボスがいる」などということは、それこそ小学生でも知っていることだった。

その後、初期のサル学の成果のいくつかには、修正が加えられた。たとえば、群れで一番優位なオスは、別にリーダーシップを発揮する「ボス」なんかじゃない、ということなど。けれど、社会にはそれはよく伝わらなかった。動物園のサル山にいけば、皆「ほら、あれがボスだ」と言っていた。

僕たちは、そういう、「サル学の現在」と「社会に知られているサル学」とのあいだの乖離をいまいましく思っており、機会あるごとに、「ほんとはボスザルっていないんですよ」と言ってきた。

けれど、最近、その様子がなんだか違う。

今回の市民講座もそうだし、学生と話しているときはもっと強く感じるのだが、そもそも、社会は「サル学の初期の成果」を忘れつつあるのではないか。

講義も含め、若い人にサルについて話すときは、まず、サルのなかまは人間に最も近縁な生物分類群であるということから説明する必要がある。しかも、かれらは義務教育で生物進化を学んでいないので、近縁とはどういうことかを説明せねばならない。

同じようなことが、いろんな側面で起きている。たとえば、チンパンジーやゴリラは集団で暮らすとか、植物が主な食物であるとか。

一般の人に講演をするような機会では、なるべく最新の知見をおりまぜながら話したいし、自分の話もしたいと思うのだが、どうもそれがうまくゆかない。ベースになる常識が失なわれているから、まずそこを説明しなくてはならない。でも、そこをかみくだいて話していると、そこだけで時間が過ぎてしまう。

今年はサル学はいろんな何十周年の年のようで、記念シンポなどもあっちこっちで開催されているが、どこか空虚な感じがする。仲間うちで祝っているけど、世間はサル学のことなど忘れている。

こうした現状は、社会全体が教養を失いつつあることにもよるだろうけど、僕たちが「サル学はよく知られている」ということにあぐらをかいてきたことにもよる。もっとマイナーな生物の研究者は、自分の専門分野のマイナー性をちゃんと理解し、そのうえで、社会に伝える価値のあることを一生懸命伝える努力をしているだろう。しかし、サルに関しては、研究対象自体がメジャーだから、研究内容もメジャーなんだ、という勘違いをしてきたような気がする。

とくに行動や社会の研究は、集団や地域個体群の全体に向けられる意識がどんどん希薄になり、ひとつの行動カテゴリー、特定の場面、せいぜい観察者の目の前のわずかな空間で起きることを、やたらと微細に記録し、その細かな現象の進化的機能を推論したり、そうでなければ、その一瞬に、何やら社会の深淵みたいなものを読みとってみせるというようなものが増えている。そういう僕も、そうしたものに違和感を覚えつつ、ではどのようなスタンスで、何を見ればいいのかということに妙案があるわけではない。

このあいだ、酒の席である人が「やっぱり僕らがサルや類人猿を研究するのは、ヒトを知りたいからだってことを、もう一度再認識する必要がある」と言っていた。まったく同感だが、ヒトを知るってどういうことだろう。

サル学の初期には、社会に一定の「ヒト観」みたいなものがあり、サル学はそれに挑戦して成果をあげてきた。見方をかえれば、サル学は社会のヒト観のありように敏感であったと言うこともできる。でも、今やそのようなヒト観は通用しない。では今の社会に「ヒト観」があるかというと、それも怪しい。社会が変容し、ヒト観がぼやけてしまうとともに、サル学のもつインパクトも薄れ、忘れさられてしまった。

だから、昔とくらべ、現在はサル学で社会にインパクトを与える成果をあげるのは難しいといえる。どんな研究、どんな発見がインパクトを与えるのか、判然としないからだ。

今でも、旧態依然とした「知能」だとか「文化」だとか「政治」だとかのトピックは、研究内容的にはあまり目新しいものではなくても、新聞が掲載してくれる。新聞に限らない。僕のようなステイタスの研究者に講演依頼がくるのも同じことだ。あとは「保護」か。

このような現状を、を世の中のせいにして嘆くのはたやすい。だが、サル学の目的が人間理解への貢献だとすれば、今の社会において、かくも「ヒト観」がぼんやりしていることに対して、もっと反省すべきではないだろうか。もし、サル学は「ヒトとは何か」を明らかにしてきた/してゆくのだ、と自負するのであれば、サル学者には、この時代においてあらたなヒト観を鮮明にしてゆくことが求められているはずだ。

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