2008年11月20日

自然科学と物語

クレイグ・スタンフォードの「直立歩行―進化への鍵」を読んでいたら、次のような文章があった。

自分の説を科学界で誰かに受け入れさせるのは、それが物語の形をとらない限り、むずかしい。私たちの心が物語を好むからだ。熱心な学生でいっぱいの講堂に立っていても、私が事実による説明から物語による説明に移って−−−野生霊長類を研究している私の人生の逸話を話しはじめて−−−ようやく、部屋の中にいる全員がこちらに注意をむける。

僕は今年の夏に、そのことに気付いた。でも僕が気付いたのは、講義の最中じゃない。娘に「シートン動物記」を読みきかせていた時だ。

市立図書館で集英社版の「シートン動物記」を見つけた僕は、うれしくなって借りて、寝る前の娘に読み聞かせたのだ。「オオカミ王ロボ」「名犬ビンゴ」「ぎざ耳坊やの冒険」などなど。

怖がりの娘は、「オオカミ王ロボ」はだめだったが、「ぎざ耳坊やの冒険」は気にいった。そして、ものすごくよく、動物の行動を理解したのだ。「逆足」の説明など、論理的にかなり難しいのに、すいすいと理解してくれたし、読んでから4ヶ月くらいたった今でもちゃんと覚えている。

それは、シートン動物記が「物語」だからだ、と思う。動物の話を、動物の気持ちになって、物語の世界に入りこんで読むことで、論理的には難しい行動の数々が、いとも簡単に理解できるのだ。

でも考えてみたら、そりゃそうだ。だって日常生活の中で、自分もやってるんだから。友達とおいかけっこしたりするときなんかに。

そして、あらためて感じたが、シートン動物記は、物語の体裁をとっていて、動物が話すような場面もあったりするんだけど、観察に基いた客観的な事実が書かれている。事実だけで、こんなに生き生きとした物語を構成できるシートンの筆力には感銘をうける。そして僕も、自分が見たことの物語を書きたくなる。

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