2010年1月20日

湯たんぽ


自宅の自室には暖房がない。
各部屋にエアコンをつけるような贅沢はする気にもならず、昔研究室で使ってた小型の電気ヒーターをつけたり消したりしてしのいでいた。が、これも電気代がばかにならない。

というわけで、以前から興味があったのだが、湯たんぽを導入した。
今はいろんな種類のものがあるが、昔ながらの「萬年 トタン湯たんぽ 1号 2.4L カバー付 」。

やかんいっぱいにお湯を沸かして湯たんぽに注ぎ、しっかり栓をしてカバーに入れると、すでに熱いくらい。

ひざかけにくるんで、正座するときは足裏の上にのせる。あぐらをかく時は組んだ脚の上にのっけると、ぽかぽか。空気をあっためる暖房の必要性をまったく感じない。外気温が低いので頭はしゃっきりする。

湯たんぽの湯を沸かすのにだってエネルギーを使うよな、と思ったが、やかん一杯の湯を沸かすのにかかる時間は10分にも満たない。それで、子どもが寝た9時に湯たんぽをつくると、夜中の2時でもまだ十分機能する。そのまま布団にもってゆき、足元に置いて寝ると、暑いくらい。朝になってもぬるく、朝食の後片付けの水として使える。実に効率的な暖房器具だ。

そこでふと思った。

暖房において、空気を暖めるというのは、ごく最近、化石燃料時代の発想なのではなかろうか。
暖炉も囲炉裏も、「あたる」ものだ。熱源からの放射で、体自体をあっためる、あるいは冷えるのを防ぐ。気温だって少しはあがるかもしれないが、それも快適な気温にするというのではなく、凍えないギリギリくらいまで。

実際、空気はすぐに冷めるので、空気を暖めるのは非効率だ。それに、部屋全体を温めるというのも非効率だ。さらに、ぬくい部屋から外へ出ると、寒暖の差がはげしすぎて体によくない。

こうして考えると、エアコンと湯たんぽの違いは、単に消費エネルギーの差ではなく、「暖をとる」ということについての考え方の違いとも言える。そして、ぬくもりを感じるという意味では、湯たんぽに軍配があがる。あったかい物体に触れているというのは、気温が高いよりもなんだか幸せ感がある
のだ。

2010年1月15日

ガボン、カメルーンに雪辱

サッカーのアフリカ選手権の予選で、ガボンがカメルーンを1:0で下した。

今さら...。

しかし、これでガボンが日本との強化試合に呼ばれる可能性がでた...かもしれない。

2010年1月12日

[読書] 雑食動物のジレンマ


本書、「雑食動物のジレンマ ──ある4つの食事の自然史 (上下巻)」 を一文で要約するなら「食とは生態である。」




「何を食べればよいのだろう?」本書の訳者あとがきや、新聞広告に書かれている言葉である。僕も本書を読みおえたとき、まったく同じ感想を抱いた。しかし、よくよく考えてみると、この問いは、本書の読後感としてはやや適切でないという気がしてきた。

僕たち人間は、雑食動物 (Omnivore)だ。僕たちの本能は、「環境にあるものから食べられるものを選んで食べなさい」と僕らに命じる。これが肉食動物なら、本能が命じるのは「環境からけものを選んで食べなさい」だし、草食動物なら「草を選んで食べなさい」、カイコのような極めて特殊化した昆虫の場合、「桑の葉を食べなさい」と、特定の植物種と部位を名指しで命じてもらえる。

しかし、僕たち雑食動物は違う。何でもたべられるかわりに、何を食べるべきか、本能は教えてくれないのだ。だから、僕たちは何でも食べられるかわりに、何を食べればよいのか知らない。何でも食べられるといったって、環境中には栄養にならないものや毒物があるだろう。では「何を食べればよいのだろう?」

雑食動物の幸運は、自然界のありとあらゆるものを食べられることにある。一方、その不幸は、どれが安全なのかを考えるとき、大体は自分しか頼るものがいないことにある。(p. 89)

これが、本書のタイトルである「雑食動物のジレンマ」だ。雑食動物のジレンマは、おそらく人類誕生以来、いや、それよりもっともっと前、霊長類の誕生以来、僕たちが抱えている終りなき問いだ。

したがって、「何を食べればよいのだろう?」という問いは、本書を読んで、

  • (アメリカの)スーパーに並ぶ食品のほとんどが、石油化学肥料を原料として"製造"されたトウモロコシから精製された栄養素を原料として工業的に加工されたものであり、肉も鶏も(養殖の)魚も、みんな元をただせばトウモロコシである。たとえばチキンナゲットはトウモロコシを食べて育った鶏にトウモロコシを加工した衣をつけて、トウモロコシ油で揚げてある。一緒に飲むコーラの甘味はトウモロコシを加工して作った合成甘味料である。
  • 加工食品の多くはさまざまに工業的な手が加えられている。某ハンバーガーチェーンの
  • 「オーガニック食品」とは、有機肥料を使わず、牧歌的な農場で昔ながらのやりかたで生産された作物ではなく、法で禁止されたいくつかの化学物質を使わずに生産した、そしてそのために遺伝子組み換えなどがなされた作物と家畜をもとに生産された食品のことである

などと言うことを知る以前から持っていないといけない問いである。

そのことは著者も繰り返し述べている。しかし、本書でつまびらかにされるアメリカの食品産業の恐るべき実態を知ると、たしかに誰しもが「何を食べればよいのだろう?」と嘆かざるを得ない気持ちはわかる。僕だってそうだ。

けれども。

工業的に製造される食品がいかにひどいものであり、あきらかに体に悪いものが含まれていたとしても、そこで食品の成分を吟味して「食べるべきものリスト」を作るような行為にはしってしまったら、何にもならない。それこそ、現代アメリカ人がやっていることだ。

アメリカの通説では、ある特定の美味しい食べ物は毒だと決めつけられる(いまは炭水化物、昔は脂肪)。そして食事をどのように食べるのか、あるいは食に対してどう考えるかが、実は食べ物そのものと同じくらい大切だということ認識されていない。フランス人は、不健康なはずのものをたくさん食べる。だが、厳しくしっかりとしたルールのもとにそうしているのだ。まず大量に食べたり、お代わりすることはしない。間食も、個食も滅多にない。人と一緒に食事をすることは、長く楽しいイベントなのだ。つまりフランスの食文化は、雑食動物のジレンマとうまく折り合いをつけており、健康を害さない食の楽しみを実現しているのだ。(p. 106)

とすると、本書を読んで反省すべきは、「何を食べればいいのだろう?」ではなく、「いかに食べればいいのだろう?」である。一言でいえば食文化だ。

本書で語られる「食文化」とは、食べる際のルールやマナーだけにとどまらないない。いかに食べるか、ということには、誰からどうやって調達するか、また、調達した食品はいかにして作られたのか、たとえばそれがハンバーグなら、その肉のもととなった動物はどこで、どのように、何を食べて育ったのか、それはどこで、誰が、どのように、ハンバーグに加工され、その過程で何を添加されたのか、を知っておく、ということも含まれる。

じゃあ昔の人や狩猟採集民やフランス人は、そういうことをよく知って食物を選択していた/いるのだろうか。 そんなことはない。昔の食事は、もっとシンプルだったのだ。自分の見知らない、とんでもないものが添加されたりしてなかったし、遥か地球の裏側から輸送されてくることもなかった。ほとんどの食品は自分の住んでる地域の(ヒトを含む)生態系の中で育まれており、そしてその生態系は信頼のおけるものだったのだ。

食文化をもつとは、私たちの前に食事が提供されるまでの過程、すなわち生態系はどんなものか、ということを知り、その生態系を信頼するとともに、その生態系を持続させるような食事ルールをもつということだと言える。

余談だが、フランスのレンヌにある研究施設を訪問したとき、夕食に何がよいかと聞かれ、地元のものが食べたいと言ったら、旅籠のレストランで、村の猟師がそこの森で狩猟したというイノシシの料理をごちそうになったことがある。

一方、現代の僕たちを支える生態系、すなわち工業的食物供給システムについて、僕たちは何も知らず、その安全性は信頼のおけるものではなく、そして僕たちはそれを持続可能なやりかたで使っていない。

鶏(学名ガルスガルス)がチキンマックナゲットになるまでの経緯は、いわば忘却という旅である。その旅は、動物の痛みだけでなく、私たちの喜びという意味でも大きな代償を伴う。だが、忘却や、あるいは無知こそ、工業的食物連鎖の特徴であり、それがそんなにも不透明な理由なのだ。(p. 19)

どんなに"文明的に"暮らしていようと、人間も生物である以上、僕たちはどこかの生態系の中にニッチをみつけて生きなくてはならず、食物連鎖のサイクルの一部を成さねばならない。しかし、現代の僕たちの食物連鎖サイクルでは、僕たちの前にお化けのような「工業的システム」がでんと構えている。そして、そのシステム内部で行われることがあまりに多く、かつ複雑で、しかも隠蔽されている。

さらに、工業的システムのその前にあるのは、石油だ。石油が形成されたのははるか昔のことで、いかにして形成されたのかはよくわかっていない。では、僕たちの後にあるのは...NOxとCO2、そして化学廃棄物だ。そのさらに後には? 何もない。僕たちは、今、そういう生態系の中で生きている。

本書によってそういうことを知ってしまった今、僕たちは、なんとかして別の生態系に乗り換えたくなる。化石(燃料)のかわりに「生きている」土壌や河川などの非生物的環境をもとに、工業的システムのかわりに現存する他の多くの動植物の相互作用から生みだされる食物を消費し、僕たちが消費したあとのもろもろは、再び土に還るような、循環的で持続的な生態システムに。えらく理想主義的だが、今や、こういうことを本気で考えなくてはならない時代になっていると思う。

本書の最後で、著者はすべてを自分で採集、狩猟したものを、すべて自分で調理した「完璧な食事」を作りあげる。それをマックの食事とは正反対のものであった。

この二つの食事は、食の両極端に位置している。(中略)前者の食の喜びは、ほぼ完璧な知識に基づいており、後者のそれは、完璧な無知に基いている。前者の多様性は、自然界の多様性、特に森の多様性をそのまま映し出し、後者のそれは、工業の巧妙さを正確に映し出している。

しかし、同時に著者はそれを日常的にするのはまったく現実的でないと言う。あたりまえだ。現代の僕たちは、そういう食事は道楽、あるいは贅沢としてしかできないのだ。生態系の乗り換えは一人ではできないし、本気で今すぐそれをやろうとしたら、食べる以外のすべてを犠牲にしなくてはならない。社会全体を変えないといけないし、それには時間がかかる。工業的サイクルが今みたいになるのにも、50年くらいはかかっている。それをやめるのには、もっと長い時間が必要だろう。

そう考えると、やっぱり「今、何を食べればよいのだろう?」と問いたくなる。が、それはもうやめておこう。幸いなことに、僕たちは雑食動物だ。本能に従い「環境中に利用可能(available)なもの」の中から、「食べられる (edible)もの」を食べるしかないのだ。工業食品も含めて。18世紀にシベリア探検をしたベーリングの一行は、道中糧食が尽き、とうとう革靴を煮て食べたと「おろしや国酔夢潭」に書いてあった。だったら、工業食品だって食べられる(ひょっとしてジャンクフードより革靴のほうがまだましかもしれないということはさておき)。なにしろ、今は「食べられるもの」はあっても「食べ物(food)」がないのだから。

ところで、本書に書かれている工業的食物連鎖の様態には、アメリカに特有の部分もあって、まだ日本は本書ほどひどくはないと思う。スーパーでは丸のままの野菜を買えるし、主食の米は穀粒の状態で家庭にもちこまれる。だが、油断していると、早晩日本も本書のような状態になりかねない。(現に、若い人と話していると、炊飯器を持っていなかったり、家でまったく調理をしなかったりする人は、確実に増えている。)それを避けるには、ライフスタイルの見直しだけでなく、農政や貿易政策についてもっと主体的に情報を集め、意見をもつことが重要だと強く感じた。本書で描かれた工業的食物システムの実態を読んで、BSEと牛肉輸入規制の問題や、事故米の流出事件、農薬冷凍ギョーザの事件などの見かたが変わってきた。

2010年1月 7日

キリクと魔女


学生たちと「キリクと魔女」を見た。

ギニア在住経験のあるアフリカ系フランス人によるこのアニメ映画は、アフリカをモチーフにした優れたアニメだ。知ってる人は知ってると思うが、このアニメ、衝撃の結末なのだ。「衝撃の結末」とはこういうことを言うのだと思う。誰も予想できない。

見終った学生たちの感想も、ひとしきりそれでもちきりだった。途中で寝てしまった学生は、最後まで見た学生とまったく話があわない。

そのほか、色彩や音楽が今まで見たことがあるアニメと全然ちがうという感想が多かった。たしかに。

この映画の魅力は、小道具だ。村の家や家財道具、服装や村の暮しぶりなど、もうほんとうのアフリカの村にそっくり。また、動植物もとてもリアル。いくつかの動植物は、種名までちゃんとわかるほど。

村人の身振りやしぐさもすごい。大きく腕をふって演説するおばさんとか、川であそぶ子どもたちの動きとか。そして音楽。現代的アレンジはしているけど、アフリカ音楽のエッセンスはしっかり凝縮されてる。そして村人は何かあるとすぐ歌い、踊る。そこもアフリカっぽい。

ひとり、「歌ったり踊ったり、ディズニーっぽかった」という感想を述べた学生がいた。それは、指摘されるまでまったく思いつかなかった。たしかにディズニー映画も歌って踊る。

だが、なんというんだろう。ディズニーのアニメは、何をモチーフにしようと、そのすべてが「ディズニー化」されているように思える。「アラジン」はちっともアラブっぽくないし、「ポカホンタス」は見てないけど、現実のネイティブ・アメリカン的要素はすっかり消されていたどころか、ひどい歪曲がされていたと聞く。白雪姫だってそうだ。グリム童話だってことを忘れそうになる。というか、白雪姫といえばディズニー、みたいになっている。

結局、ディズニーアニメの「舞台」は、ディズニーランドなのだ。作中人物が歌い、踊るのは、観客にむけたショーである。でも、「キリク」の中でみんなが歌い、踊るのは、ある意味"ほんとうに"歌って踊りたくなって、それで歌って踊っているのだ。

ということが、伝えられたらよかったな。

あと、余談だが、フランス語がみじかく完結で、耳で聞いてぜんぶわかった。子どもむけ映画は、耳を鍛えるのにいいかも。


2010年1月 6日

2010年の目標

あけましておめでとうございます。

  • 人類学をやる
  • 論文を2本以上書く

だった。人類学については、一応人類学分野の本(共編)を出したので、よしとしよう。論文は、本の一章を書いたのを入れても、目標を達成できなかった。霊長類学会の運営が、思ったよりもずっと大変だったとか、JICAのプロジェクトがいよいよはじまったとか言い訳はあるが、言い訳をしたらきりがない。

4月に年度がかわってから、大学の講義と雑務のスクランブルにペースを乱し、そのままいまひとつ乗れない一年だった。今年は、同じ轍を踏まないよう、まずは年間コンスタントに働くという意識を強くもとうと思う。

よかった点は、人類学、人類学、と事あるごとに言ってきたので、自分の意識がだいぶかわったというところか。生物学でゆくのか、人類学でゆくのか。後者のほうが自分にとってはぜったい面白い。

で、今年の目標。宿題や目先の仕事はたくさんあるので、それはそれとして、今年も人類学路線でゆこう。今年は

  • 「家族論」をやる。
  • チンパンジーとゴリラの種間関係の研究の人類学的意義について再考する。
のふたつを目標にしたい。僕は、「類人猿の生態研究を通じて人類の社会進化を考える」ということをしたいのだが、家族論は解明すべき人類社会の姿を明確にするため、種間関係研究の意義の再考は、類人猿と人類をつなげるためだ。両方がつながると、自分の人類学ができると思う。

公表するレベルに達するかはともかく、このふたつは今年のうちに書いたものを作りたい。

あと、具体的なことでいえば、
  • 積年の宿題をすべて終わらせる
  • ニホンザルの本の企画を脱稿する
  • ムカラバの総合調査を成功させる
  • GISシステムを完全構築する
  • IPSのシンポを成功させる
  • 授業でとりくんできた「環境と人間」の内容をかため、テキスト化する
  • 落語のネタを二つふやす
といったところ。人目に触れるところに書いちゃった。がんばろう。