僕の調査地のムカラバでは、だいぶ類人猿を「直接観察」できるようになった。そうは言っても、まだまだかれらを十全に観察できるとはいいがたい。人づけしたゴリラの群れでさえ、終日かれらをvisualに確認できているわけではない。植生にさえぎられ、そこにいるのはわかっているが、見えてはいない、なんていう状態の時間がかなりある。チンパンジーは、こちらに気づいたら一目散に逃げてしまう。
そんな場合、これまでは「間接証拠」に頼っていろんな情報を得てきた。フンとか、食痕とか、ベッドとか。けど、正直いって、間接証拠にはもう飽き飽きしてしまった。人づけされたゴリラを観察して感じたのは、断片的で不完全な観察であっても、直接観察のほうが、はるかに多くの、かれらの「生態」に関する情報を与えてくれるということだ。
だが、断片的な観察は、どうやってデータにし、分析したらいいのだろう。また、そのためには、何を、どのように記録、記述すればいいのだろう。そういう問題意識のもと、ここしばらく、自然科学以外の分野の人による、「フィールドワーク」の作法やフィールドノート(フィールドノーツ)の書きかた、質的分析に関する本を読んできた。たとえば、佐藤郁哉「
フィールドワークの技法--問いを育てる、仮説をきたえる
」「
フィールドワーク--書を持って街へ出よう (ワードマップ)
」、エマーソン他「
方法としてのフィールドノート--現地取材から物語作成まで」、萱間真美「
質的研究実践ノート--研究プロセスを進めるclueとポイント
」など。
これらの本は大いに参考になったが、いずれも重点がおかれているのはノートをとってからどう分析するかということにあり、具体的にフィールドで野帳にどう記すか、日々の観察記録はどう書くのかについては、あまり多くの示唆を得られなかった。
いや、それぞれ、具体的な記述、記録例はふんだんに掲載してあり、参考になるのだが、自分のムカラバでの記録、記述にうまいこと活かせないのである。それは、記録はどうすべきか、という本質部分の説明がなく、いきなり具体例になっていたからだ。
麻生武「
「見る」と「書く」との出会い--フィールド観察学入門
」を読んで、「観察記録とはどうあるべきか」という本質への洞察を得ることができた。著者は発達心理学のフィールドワーカーであり、また、大学の「基礎演習」で「フィールド観察学」の演習を行なっているそうだ。
結論から先に述べると、著者はフィールドノーツを書くことの目的(機能)を次のように述べている。
観察体験を一連のエピソード記憶として構成し標本化することが、フィールドノーツの第1の機能である。(p. 252)
引用中にある「エピソード記憶」とは、単なるエピソードのことではない。「見たものを覚えている(再認できる)」ということだけでなく、「確かに自分はそれを見たという出来事をも覚えている」と言えるような記憶のシステムのことである。本文の文言を借りるなら「あの時あの場面で、私がこの目で見、この耳で聞いたという「自己識的意識」を伴う体験の記憶」のことである。
これに対して、単に見たものを再認できる、というだけの記憶を意味記憶という。
たとえば、古い写真を見て、「いつどこで撮影したものかは(服装や背景で)わかるし、自分と一緒に写っているのは誰かも全部わかるけれど、その時のことは思い出せない」というような記憶は意味記憶だ。一方、写真を見ることで、写真をとったときのことをありありと想起するような記憶がエピソード記憶である。
フィールドノーツは、観察事実を再確認できるように書くだけでは足りない。自分がそれを見たぞ、というエピソード記憶を再認できるよう書くべきである、といういのが、本書から得た最大の教訓だ。
では、そのようなノーツを書くにはどうすればいいか。コツは二つある。
ひとつは、物語として記述するということだ。(物語として記述する、という表現は本書にあったかどうか定かでないが、そういうことだと思う。)
そこから一貫したテーマや問いが生まれてくるような観察記録は、一般にすぐれた観察記録であると言ってよいだろう。(p. 156)
物語として記述するといっても、それは擬人化した表現を使ったり、自分の感情や思いを込めて記録するということではない。観察体験をストーリーとしてとらえ、語るという姿勢で記述するということだ。
第二に、逆説的だが、ディテールとなる事実(意味記憶の構成要素)を、観察対象およびその背景まで、できるだけ詳しく丁寧に記述するということだ。体験したということは覚えているんだけど、それが何だったかは全然覚えていない、では、エピソード記憶とは言えない。エピソード記憶と意味記憶は対立概念ではなく、エピソード記憶の中に意味記憶が包摂されるのだ。
例えば、幼稚園の観察の際、絵本の並べてある棚からA君が絵本をとってきたシーンがあったとしよう。観察者はその絵本の棚がどのようなものかは、あらかじめ熟知していたとしよう。そうすると、フィールドノーツに書こうとした際に目に浮かぶその絵本の棚は、はたしていつ観察者の記憶の中に潜り込んだのだろうか。必ずしもその観察の時点ではないといった自体が生じるのである。(中略)だとすると、ある一連の出来事の記憶を細分化し、個々のエピソード記憶や個々の意味記憶に分解することは、用語の用い方としてもまずいのだろう。そのような場合、まず全体をエピソード記憶としてとらえ、その細部にどのように意味記憶が用いられたのか、分かる限りで意識しておくのが最善の方法であるように思われる。(p. 231)
また、上の引用は、もうひとつ重要な示唆を与えてくれる。それは、環境の記述は、対象を観察しているその時以外にもしておくとよい、ということだ。実際に動物を見る時、周囲の地形や植生を瞬時に観察し、記録にとどめるのは困難である。よく使う場所などは、あらかじめ環境記述のストックをしておき、随時アップデートしてゆくようなシステムを作っておくとよい、と思った。
実際に書かれるフィールドノーツの内容イメージとして、本書では、冒頭に正岡子規が近所の子の遊ぶさまを書いた「写生文」が例示されている。動物の観察記録としては「シートン動物記」が大いに参考になると思う。また、上にあげた佐藤郁哉さんの本の中で、演劇の書き割りと台本に着想した記録法が紹介されていた。はじめて読んだときはいまいちピンとこなかったが、なかなか示唆的だと再認した。台本とは、演劇(生き生きとした舞台)を作り出すもとであり、エピソード記憶を呼び出す装置と考えられるからだ。
しかし、このノート技法は、たぶん訓練が必要だろう。本来、大学院に入った段階でこういう訓練をしておくべきだったのだが...。しかし、思い立ったが吉日だ。
なお、本書の前半部は著者が大学の「基礎演習」等で実践したフィールドワークのトレーニングの内容が詳しく書かれており、大学教員としても大変参考になる。来年度は、学生と一緒に「書く」ことのトレーニングをしよう。