2011年1月30日

動物園と学校の息の長い連携

1月28日は日本モンキーセンターの研究幹事会だった。自宅も職場も近所なのに用事があるときしか行ってないことに恐縮しつつ出席したが、モンキーセンターの今年度のすぐれた取り組みを多数聞くことができて有意義だった。

僕がまだ所属していたころから、学芸部門は積極的に学校との連携を模索していた。それから5年近くたって、学校と連携した学習活動の実践が見事に花開いていた。貪欲なスタッフのみなさんは「まだまだこれから」と言うかもしれないが、傍目には、動物園が主体的に行う教育活動としてはかなり突出したものに映る。今や犬山市に4つある中学校のうち3校がモンキーセンターでの学習活動を理科の授業にとりいれているのをはじめ、犬山市を中心に近隣の小中学校の単なる「利用」ではなく「連携」先となっている。

特長的なのは、学芸スタッフが連携校の先生がたと顔の見える息の長い関係を作っていることだ。パッケージ化された学習プログラムを「どうぞご自由にお使いください」と提供するのでも、学校側が単にモンキーセンターを教材として使うのでもなく、先生と学芸スタッフが一緒になって、子どもたちがモンキーセンターで何を学べるかを考え、実践してゆく。すべてがオーダーメイドだ。小学生むけ学習プランを紹介するチラシをもらい、「メニュー」のいくつかをうちの大学の子ども学部の学生に体験させることはできないかと尋ねたら、「これは単なる例で、プログラムは学校と相談しながら作るんですよ。」と言われた。そういえばそうだったね。昔からずっと。

このような連携が可能になったことは、もちろん地域の学校の先生がたの熱意に負うところも多いだろう。だが、TさんやAさんをはじめとしたモンキーセンター学芸スタッフの教育活動に対するユニークな姿勢も大きい。その姿勢とは


モンキーセンターには子どもが学習すべきことがある


というものだ。

動物園や博物館と学校の連携活動が新聞やテレビで紹介されるとき、たいていの場合「〇〇の展示や資料を学習に活用してもらおうと」という枕がつく。そこには「活用しなかったら困るというわけではない」というニュアンスがある。実際、活用されなくて困るのは来場者の少ない動物園のほうで学校ではないと言う人もいる。そういうニュアンスで連携活動を行うところは、ひたすら学校の都合に配慮するか、逆に「丸投げ」されてパッケージかされた学習プログラムを提供するだけだったりする。

モンキーセンターのスタッフは違う。彼らには子どもたちに伝えたいこと、学んでほしいことがあり、それをなんとかして子どもたちに届けたいと願っている。その情熱が先生がたを動かし、時間割調整や引率などの負担をものともせずモンキーセンターでの学習活動を継続する学校が増えているのだろう。

顔の見える息の長い連携を継続するためには、動物園・学校の双方が相当の労力を活動に投入する必要がある。研究幹事会の場でも、学習利用が増えてうれしいが、増えすぎるとキャパを超えてしまいクオリティを保つのが大変だという現状が報告された。また先生がたも生徒を引率する前後に何度も何度もセンターに打ち合わせに足を運ぶ。日々の授業と生徒指導をしながら、大変なご苦労である。

もっとも、真剣な連携はかように大変だからこそ、出来合いのパッケージの「活用」という利用形態が一般的なのだろう。また、そうした活動はコンテンツが「見えやすい」ため報道されやすい(「先生が学校からホームページにアクセスして、希望するコンテンツを選んでクリックすると予約までできちゃうんです。」みたいな)。でも、僕自身も子ども向け学習イベントや講座をやってみて感じることだが、「既製品」って印象に残らないんだよね。しかも、そういうのって事前学習や事後学習がないか、あったとしてもおざなりなことが多いし。

そんなわけで、研究幹事会では僕が出てからのモンキーセンターの学芸部門の躍進ぶりに目を見張るとともに、パンク寸前といいながら充実した顔をしている元リサーチ、現学芸のTくんがちょっとうらやましかったりもしたのだが、学芸が提供するコンテンツの根幹にあるのは学問全体の研究成果なわけで、かれらの実践をサポートするためにも、自分の研究をしっかりしなくてはと思った週末である。

2011年1月23日

[読書] 工藤順一「文書術―読みこなし、書きこなす」(中公文庫)


文書術―読みこなし、書きこなす (中公新書)
工藤 順一
中央公論新社
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先日やっと卒論発表会が終わった。あらためて、学生に文章を書かせることの大変さを実感した。どうしたら学生が「書ける」ようになるのか。4年間かれらと接してきて、「書けない」ことの背景にあるさまざまな問題は理解できた。しかしどうすればいいのかわからないでいる。


学生が(というか人が)文書を「書けない」ということは、次のようないくつもの「できない」の複合産物である。


    1. 表現を知らない、語彙がない。(=言葉にできない)
    2. 文法を知らない。(=文を作れない)
    3. 文章構造を組めない。
    4. 知識がない、知識を得る方法を知らない。
    5. 事象をもとに考える力がない。


これらをひとつひとつクリアするのは難しい。たとえば単語帳を使って語彙を増やしたところで文章が書けるようにはならないし、文章構成などの作文作法を教えても、言葉を知らなければ文が書けない。あちらをたてればこちらがたたずで、個々の能力を高めるためのトレーニングをしても作文は改善されないので、学生たちもトレーニングの効果を実感できず、長続きしない。


本書には、これらいくつもの「できない」をまとめて克服するためのさまざまな方法が提案されている。たとえば「こぼちゃん作文」。4コマ漫画の「こぼちゃん」を"ノベライズ"するという課題だ。状況説明だけでなく、面白さもちゃんと伝わるようにしなくてはならない。


スゴイ!と思ったのは、「考えるとはどういうことか」についての割り切った考え方だ。著者は考えるということを「似ているものをさがす」「別の言葉で言い換える」「別のものと比較する」など12の行為に分ける。そして、考えるとはそれら12の行為の一部または全部を行うことであると言い切る。


たとえば「メガネについて考えを述べよ。」と言われたら、とりあえず「メガネ」を別の言葉で言い換えてみたり、コンタクトレンズと比較したり、メガネと似ているものを探したりすればよい。そしてそれらを文章に記せば、それは「メガネについての考え」をまとめたことになるのだ。「メガネとは視力矯正器具である。メガネに似たものにはコンタクトレンズがある。コンタクトレンズは小さくて眼球に張り付けるものだが、メガネは普通フレームにはめられた凸面ガラスである。」という感じ。今ぼくはこの文章を何の資料も用いずに書いた。ということはこれが僕のメガネについての「考え」だが、これはまずメガネを別の言葉(視力矯正器具)で言い換え、そして似ているもの(コンタクトレンズ)をあげ、それとメガネとを比較しただけである。


これは一見事実の羅列に見えるが、そうではない。ぼくのオリジナルの考えだ。なぜならメガネ=視力矯正器具とは限らないからだ。「メガネとは視力矯正器具である」と言い切ったのはぼくにほかならない。


考えを述べるってこんなんででいいわけ? という学生の驚くようすが目に浮かぶようだが、これでよい。少なくとも何も書けないよりずっとましだ。こんなんでいいなら、きっと学生もとりあえずすいすい書けるだろう。内容が優れているかはともかく。


この「とりあえず書ける」ということはとても大事だ。なぜなら「とりあえず書く」ことで考えは深まるからだ。現にぼくは今とりあえず書いたことで、視力を矯正しない伊達メガネもあるじゃないかとか、コンタクトレンズがメガネと似ているのは機能面であって、形なら水泳用のゴーグルが似てるじゃないかとか、いろんなことを自然と考えはじめた。


こうしたノウハウはもともと子どもたちへの作文指導のノウハウとして著者が開発してきたものだそうだ。だが、十分大人にも通用する。来年の卒論指導用のテキストとして採用したい。


2011年1月18日

NevernoteのGUIフォントを変更する(Ubuntu 10.10)


Nevernoteをインストールしたはいいが(Linuxでも使えるフリーのevernoteクローン「NeverNote」)、あまり使っていない。evernoteのうまい活用法がよくわからないということもあるが、NeverNoteのGUIがいまひとつなことも原因だ。

とくにGUIのフォント。サイズが小さく行間が狭い。なんとも見づらく、それがアプリケーションの起動をためらわせる。設定メニューでGUIをいじることができず、ついつい遠ざけていた。

が、NeverNoteのプロジェクトページにそのものずばりの質問があった(How to change the GUI font?)。これによると、NeverNoteのGUIはQTを使用しているので、コンピュータ上のQTのスタイルシート(/usr/share/nevernote/qss/default.qss)を修正すれば簡単に変更できるらしい。

QSSはCSSによく似たフォーマットなのでとっつきやすいが、どのセクションを書き換えればどの部分のフォントを変更すればいいのかわからない。今回は、とりあえずGUIすべてのフォントをゴシック体にして、サイズも大きくしたいということで、スタイルシートの一番上に

QObject{
    font-family: sans-serif;
    font: 12px;
}

と記入。これで、ダイアログボックスをのぞくすべてのGUIフォントが見やすくなった。ほんとはダイアログボックスのフォントも変わらないといけないはずだが、それはQTのバグらしい。

2011年1月12日

[読書]岡村道雄「旧石器遺跡捏造事件」(山川出版)

旧石器遺跡捏造事件
旧石器遺跡捏造事件
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岡村 道雄
山川出版社
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出張の帰りに立ち寄ったアバンティ京都駅前ブックセンターで平積みになっていたのを見つけ、ぱらぱらとめくっているうちにちゃんと読みたくなって購入した。著者は捏造者の極めて近にいて、ある意味彼の捏造した「成果」にお墨付きを与えた人物だという。そういう人物が、長期に渡るあからさまな捏造がなぜ可能だったのかを考察した本だという。しかも最近捏造者本人と再会し、インタビューもしたという。非常に興味をそそられた。

しかし、結果として読後感は肩透かし以外の何ものでもなかった。まず、捏造者本人はほとんどのことを「忘れてしまった」と言って結局何も明かしていない。捏造した「ゴッドハンド」の指を切り落としていたという事実は、それを本書で初めて知る人には衝撃的かもしれないが、ずっと前からWikipediaに掲載されていた程度の情報だ。

周囲がなぜ見抜けなかったのか、という疑問に対しては、お決まりの「学問のすすめ方に問題があった、発見の妥当性を検証する姿勢に欠けていた」というお題目以上のことは述べていない。

が、本書を読んでいくつかわかったことがある。それは著者の伝えたかったこととはだいぶ違うかもしれないが。

1 当時、捏造はとっても簡単だったようだ。

調査隊はみんな自分の受け持ちを発掘していて、隣の人が何をしているかなど見ていないそうだ。また、夕方~朝までの現場の管理もいいかげん。事件以降、捏造を防ぐための対策がなされたとかかれているが、それらの対策はすべて「掘り出されたもの」が本物かどうかを精密に検証するというもので、誰かが何かを「埋めないように」する対策についてはほとんど記されていない。記されてないだけで対策はしているという可能性はあるが、それもやや不自然だ。だから現在でも「埋めさせない対策」はあんまりしてないんじゃないかと思う。

だから、もともとちょっとした捏造は日常茶飯事だったのじゃないかな、とつい思ってしまった。

2 毎日新聞のスクープ以前から、近い関係者はみんな見て見ぬふりをしていたようだ。

本書ではいかにも「疑念はあったがまさかと思っていた。」というふうに記述されているが、おかしすぎる。だって各地の遺跡のほとんどで、藤村氏が第一発見者、というかすべてを発見していたんだから。見つからないと彼を呼んだという感じすらある。それから、「一緒にこれがでないとおかしい」と指摘すると翌日はそれが発掘されたんだって。著者は意図せず藤村氏のつじつま合わせを手伝う結果になっていたと反省してみせるが、うーん、僕は信用できないな。共犯ではないとしても、わかってたでしょ、と言いたい。

3 藤村氏の捏造に周囲がだまされたのは(本当にだまされていたのだったとしたら)、彼の掘り出す「成果」が周囲の研究者の予測に合致していたからではなく、単に「より古い地層からすごいものが出てきていたから」だったようだ。

著者は業界の姿勢に問題があったというが、どう問題だったかをつっこんで反省していない。発見重視の姿勢に問題があったようなことは述べている。しかし僕にはむしろ逆に思える。かれらは、発見を等しく重視するのではなく、うれしい発見とうれしくない発見を分けていたのだ。さらに、うれしい発見とは自らの学説にマッチする発見ではない。古ければよい的な発想だ。

ピルトダウン事件は「人類の祖先は『頭は人間、体は類人猿』である」という学説を支持する人たちがやったのだろうし、それにとびついたのはやはりその説を支持する人々だった。学説そのものは論理的というよりむしろ「願望」に近いものだったけれど、ともかく学術の世界で議論されていたことだったのだ。

けれども、藤村氏は自分で何らかの学説を唱え、それに沿って捏造していたのではない。また、著者をはじめ周囲の関係者たちも、自分の説にマッチする捏造だったからだまされたのでもない。藤村氏はただ一般人にうけそうなことをやり、関係者はみんなにうけるから深く考えずに迎合していた。

なんか、ほんとにしょうもない事件だったのだなぁ。ということがよくわかる一冊であった。

2011年1月 5日

年頭の決意


2011年あけましておめでとうございます。

去年たてた目標はたくさんあったが、どれも中途半端であった。しかし、どれも中途半端ながら前進したともいえる。よくよく思い返せば、目標そのものが茫漠としていた。しかし、まがりなりにも1年間目標を意識してきた結果、達成度は中途半端だったものの、それぞれの目標がより明確になってきたように思う。

去年の11月頃から、生活習慣や仕事の進め方で、内面的なブレイクスルーがあった。表層はそんなに変わっていないけれど、生産性が増したと思う。また、アウトプットへの意識付けが強くなった。

そこで今年はアウトプットの年としたい。年頭に7つの大きなアウトプットプロジェクトを設定した。どれも発表媒体まで考えたので、達成状態が明確になった。年末に達成度を数値で評価できる。緊張するが、がんばろう。

おととし、去年と「人類学をやる」というのを研究面での目標としたが、僕のやる人類学の方向性がわずかながら見えてきたように思う。で、今年のテーマはふたつ。ひとつは「雑食と社会進化」。もうひとつは「子どもの発達における特定の他者」。ふたつは一見相互の関連がないようだが、間に「家族起源論」というタームをさしはさむと、うまいことつながるのだ。たぶん。

プライベートでは、落語のネタを増やしたい。去年は1回だけ出演機会があったが、今年は2回くらいはやりたいなぁ。かもめ師匠、ご指導よろしくおねがいします。

あと、瑣末なことだが、毎日朝と夕方にストレッチをしよう。ひどい凝り性で、毎日辛いのだ。1年間ストレッチを続けて体をほぐせば、集中力や体力向上にもつながると思う。

最後に、アウトプットの年にふさわしく、ブログの更新頻度もあげたい。月に10エントリーが目標。また、講演ネタなどの雑文を公式ウェブのほうにも載せてゆきたい。

年末に気持ちよくこのエントリを振り返ることができますように。